
(白部は主体を示す)
標語 「変革犠牲」「先進批判」「高慢不臆」「新規創造」
えい ごう ちょう やく
永劫の跳躍
傷官
しょう かん
主 客 標 示

傷官人名リスト
ヒィヒテ ルター ニュートン ラィプニッツ ニーチェ キンゼイ モンテスキュー ホワイトヘッド パウル・ナトルプ
マックスシェラー パラケルス ベルグソン カッシィラ エジソン クリスティ アントニオーニ ウィンザー公 ブブカ
フェヌロン ボーマルシュ シャルル・フーリエ キ゜ゾー シスモンディ シャトー・ブリアン ギボン カーライル
コーヘン
マリア・テレジャ ダヴィツト ノウム・チョムスキー フック ロマン・バルト ラスキン ジャン・フーリエ シスモンディ
ウイリアム・ジェームス マイネッケ DH・ロレンス エレンケイ ノイマン シューラー マーシャル ラートブルフ
ヒル・ハーディング ケルゼン アシュケナージ マイルス・ディヴィス ポルポト スピルバーグ ロスチャイルド
ルーズベルト大統領 ネタニヤフ首相 ハンク・アーロン ジョセ・ホルタ トニー・ブレア タイガー・ウッズ チャリー・パーカー
ペルニーニ デューク・エリントン マイルス・ディヴィス アイヒマン パウエル長官 カンター商務長官 スカルノ大統領
ニクソン大統領 チャーチル首相 ゲバラ キング牧師 アイゼン・ハゥワー ジョージ・ワシントン トニー・ザイラー
ビッック・モロー マーク・レスター アン・マーグレット ジョン・ウェイン ダスティン・ホフマン オーソン・ウェルズ
マーロン・ブロンド ドリス・デェイ フランシス・レイ ジョージ・ハミルトン デビット・マッカラム ジョン・トラボルタ
シドニー・ポァティエ バート・ランカスター シルビァ・クリステル カトリーヌ・スパーク アーネスト・ボーグナイン マタハリ
カール・マルデン クリストファ・プラマー クリストファ・ロイド クリストファ・リー シドェームス・カーン ジェームス・ギャグニー
ジャン・レノ ブルック・シールズ バーバラ・ストライサンド ロミー・シュナイダー
レナ・オリン マリア・シュナイダー
ブリジット・ニールセン デビー・レイノルズ ジヨーン・フォンティン ジェニファ・ジヨーンズ
ジェーン・ワイマン 法輪功
ジェイミー・リーカーティス サンドリー・ヌボネール キャスリーン・ターナー カレン・アレン ウィーナ・ライダー アン・フランシス
ウーピー・ゴールドパーク アンナ・カリーナ ロバート・ディバル アンジー・ディッキンソン マーティン・ランドー ジュアン・ミロ
ルパート・グレイブス ルトガー・ハゥワー ボーブリッジス ハリーディーン・スタントン ハディ・クリューガー ニック・ノルティ
トム・ハルス デビット・ドウカブニー デニス・ホッパー チョウ・ユンファ チャールズ・グローディン スティーブン・ドーフ
ゲーリー・ビージー ウイル・スミス グレゴリー・ペック ピアポント・モルガン アンドリュー・カーネギー ファイサル一世
ウィリアム・ジェイムス アーネット・ラザホード モーリス・ドブラマンク アルトゥーア・シュニッツラ エレン・ケイ 劉少奇
ルイス・ターマン ヴォルフ・ガングケラー アンリ・バルビュス エルンスト・ブロッホ アガサ・クリスティ アントン・ウェーベルン
トーマス・ワトソン セィゲン・エンゼンシュタイン アルベルト・モラーヴィア エーリヒ・レマルク
ハイレ・セラシェ一世
エラリー・クィーン兄 GD・ヒルラー ヘンリー・ムーア
エドワード八世 アウン・サン ジョン・ヒックス コルベ神父
セルマン・ワクスマン フリードリヒ・マイネッケ エドワード・フラナガン神父 クロード・シャーン ジョセフ・ドッジ MC・ハマー
アルフレッド・キンゼー ピーター・ドラッガー ジョン・オズボーン アブドゥル・ラーマン アラン・シリトー
ハビエル・デクレアル
フランソワ・トリュフォー ラーダー・クリシュナン ウラジミール・ホロビッツ リチャード・ブローティガン ホセ・マリア・アルゲダス
アッバス・キアロスタミ 金大中 ピヨートル三世 H・オズワルド フォン・ノイマン
黙阿弥 柄谷行人 江藤淳 足利義満 大森荘蔵 上杉謙信 坂本龍馬 三浦梅園
高浜虚子 宮沢賢治
宮本外骨 賀茂真淵 内田百閨@ 竹下夢二 歌川国芳 武者小路実篤 北里柴三郎 銭屋五兵衛
折口信夫
岡潔 北川透 津田左右吉 小野洋子 菊地寛 坂口安吾 サトウサンペイ 石橋湛山 海音寺潮五郎 裕仁天皇
良子皇后 美智子皇后 和宮親子 野尻抱影 市川浩 久保亘 渡辺恒三 岩国哲人 不破哲三
中村光夫
田中六助 後藤田正晴 武村正義 火野葦平 矢野あき子 黒柳徹子 渡辺美佐子 俵萌子 矢崎泰久 加藤寛
江副浩正 吉行淳之介 松本健一 小島剛夕 桐島洋子 内橋克人 仲畑貴志 筒井康隆 大宅壮一 片岡義男 杉浦幸雄
山岡荘八 岩田慶治 白石加代子 杉浦日向子 松田政男 池田理代子 成瀬巳喜男 高野猛 篠田正浩 西村京太郎
白石かずこ 和田誠 中島梓 安西水丸 宇野亜喜良 深作欣二 溝口健二 本多勝一 矢追純一
夏耿之介
東野英治郎 中村扇雀 渡辺あつし 梶原一騎 団鬼六 渡辺昇一 山口洋子 阿佐田哲也 藤本弘 山本直純
森田実 東山魁夷 桂春之輔 南美布子 松任谷正隆 秋山豊寛 木村太郎 上岡龍太郎 高橋圭三
和泉宗章
黒住宗忠 力道山 馬場辰猪 五井昌久 杉山元 宇垣一成 山内容堂 西堀栄三郎 島津斉彬 新島襄
入江昭 金鶴泳 宮崎学 小池真理子 やくみつる 神崎武法 亀井静 周富徳 石川次郎 花村萬月 金子兜太
高橋尚子 暉峻康隆 えなりかずき 若田光一 藤子F不二雄 塩田真弓 両国達郎 中山秀直 江頭豊 浜口雄幸
小出義雄 国谷裕子 梁石日 小渕優子 筆坂秀世 植草一秀 川野一字 志位和夫 佐野元治 山川紘矢
椎名林檎 江畑謙介 尾崎秀美 滝廉太郎 藤田嗣治 郁達夫 林真須美 古橋広之助 松田龍平 板尾創路
クリームシチュー・上田 トミーズ・雅 ゆうとひ゜あ・ホープ 太田光 広末涼子 藤原紀香 セイン・カミュ 品川祐
山本圭壱 はな 松嶋尚美 松坂大輔 井川比佐志 白木みのる テイクツー・東 グッチ・裕三 山田まりや 角川博
角野卓造 久米明 椎名桔平 鈴木正幸 南州太郎 藤原嘉明 美川憲一 山崎邦正 ヨネスケ 稲垣美穂子
古舘伊知郎 黒田あゆみ 佐々木功 平田満 桂小金治 毒蝮三太夫 奥田瑛二 渡哲也
中居正広 団しん也 荒井注
松村邦洋 坂田利夫 おすぎピー子 桑田佳祐 ルー大柴 高島政伸 柳沢慎吾 大和田伸也 山内賢
加藤和也
大橋巨泉 笠智衆 デーモン小暮 榎本健一 山口崇 岡村隆史 内籐陳 神田正輝 忌野清四郎 タモリ
岡八郎
中山律子 小松方正 高島政伸 沖田浩之
ガッツ石松 西田敏行 やなせたかじん
桜金造 谷敬 高石友也
木村功 松崎しげる 市川歌衛門
萩原健一 中山秀征 赤井英和 織田裕二 裕木奈江 桜井幸子
富田靖子
三ツ矢歌子 坂口良子 久保菜穂子
梶芽衣子 竹下景子 久我美子
渚まゆみ 花田幸子 いしだあゆみ
早乙女愛 芹明香 大江美智子 原節子
松本伊予 紺野美紗子 金沢明子
花田景子 長嶺ヤスコ 若原瞳
柏原芳恵 観月ありさ 小川知子
吉行和子 浅芽陽子 岡田奈々 宮沢りえ 安田成義 田中美佐子 淡島千景
長内美那子 音無美紀子 小野みゆき 加茂さくら 木村佳乃 西木原アヤ子 泊文代 田中麗奈 津島恵子
長岡輝子 中田喜子 西村知美 藤村志保 三浦早苗 持田美保 山本エレナ 友里千賀子 江頭秀晴 加藤邦彦
山崎方也 スピッッツ・田村 レッド・吉田 藤真利子
愛染恭子 吉田日出子 根本監督
村田兆治 近鉄・太田
岡田彰布 平田公士 北尾光司 松沼兄 前田亘輝 斎藤隆 野村弘樹 波留敏夫 門倉健 リ・ボンジョム メイ
柏田貴史 稲葉篤紀 石井一久 川尻哲郎 デニー 西崎幸広 伊藤勤 五十嵐亮太 ヤクルト・大杉 百瀬博教
鹿取義隆 岩村明憲 山崎浩子 武蔵丸
西部・山崎 山本昌 阪神・竹之内 今井雄太郎 岡本綾子
旭鷲山
林泰男 土谷正実 川俣軍司 宮崎勤 明石海人 田谷鋭 大西民子 玉城徹 村野四郎 高橋新吉 古木克明
生方たつゑ 佐藤佐太郎 前登志夫 島田修二 星野立子 藤田湘子 鷹羽狩行 壷井繁治 和田徹三 会田綱雄
藤富保男 新川和江 川崎洋 岩田宏 小野十三郎 山口達也 矢作兼 青木さやか 中原昌也 インパルス・堤下
カリカ・家城 笑い飯・西田 二挺拳銃・川谷 ペナルティ・ヒデ 礒部公一 秋吉敏子 桜井幸子 三宅久之
北島康介 古山高麗雄 玉木正之
傷官考察
四柱推命の説く傷官の性情は「変革犠牲」「先進批判」「高慢不臆」「新規創造」である。
身辺への言い方は「最先端の情報を知ることを生きがいにする」「凡庸普通を嫌う」である。
日干の自我が主たる外側月支の気に対し「生成、放出」する、が気の力の配置となる。
上図「主客標示」では、白部自我が、終わり無く網部外側世界をめがけている。これが本生日の自我の世界観となる。
この主客配置は自我が欲望対象をめがけて進む「食神」と同型を成す。食神の主客の陰陽は同極の関係である。
傷官はこの陰陽関係が異極の関係となる。この異極の関係は、世界との関わりを「整理言語」の身体を使用して行うものとなる。
これは本文全体を通しての仮説である。仮説はその全体整理に順であれば、これを採用することとする。
前項「偏財」の「制圧する( 客体の漆黒マーク)」と今回の「生成放出する(
網目マーク) 」の違いを説明する。漆黒マークは主客の明確
な隔絶を示し、各時々の「いまここ」の現実意識・リアリズムを生む。対して網目マークは不明確な隔絶、馴染の関係を示して主客の
系統感を生む事となる。客体は自我に対して系統あるものとして接触し、自我もまた系統あるものとしての自覚が強いと云える。
また「主客の大きい方に神、信頼にむ足るものがある」も同じく仮説であるが、この仮説に拠り傷官の確信場所は自我の側に在ると云
う事ができる。また全体の矩形は同タイプとの相性悪く、激動期に適す。
以上をまとめて次の様に云う。
本項傷官の世界観( 主客標示)は、絶対の場所を自我に置き、系統する外側世界に向けて整理言語身体で突進する。整理言語身体
の興味は知に拠る世界の獲得、我ものとすることにある。
力の方向が自我に求心しないため、知の内面全体化は起こらない。放出型で知を追いかける。
言葉に拠って同定し、定着させて先に進むのである。
後を振り向かず系統する外側最先端の要所を、次々と言葉の整理力で突き進む。凡庸な知は足蹴りにして・・・。
哲学思想の分野に以上の形を当ててみる。
『傷官フィヒテ』の「絶対自我論」は、客体の不完全性に対し,自らの活動により自己創造可能な主体が,自らを創造主の自我と観じ
る時、その直観が自我本質を認識する事が出来るとするものであるが、これはカント(
正官)哲学を受けての整理上の都合である。
自我からの放出を云うには、カントでは「直観−構想力」を使うしかなく、証拠には大事とする直観はイメージではなく「知的直観」なの
である。フィヒテの世界は哲学を「知識学」と呼ぶ程に像的イメージからは遠いのである。
「直観されたものを定立する自我の行為は、いかなる反省でもなく、すなわち内へ進みゆく活動ではなく、そとへ進みゆく活動である」
「実践的分野においては、構想力は無限に進んで行き、ついには最高統一の理念にまで至る」「絶対者は知において把握された知の
絶対的根源である」「人類の地上生活の目的はその生活において自己の一切の関係を自由に、理性に適応させることである」
この絶対的自我の「自由と理性の展開史」から、ヘーゲル(
劫財)の「絶対精神の自己展開」までは、あと一歩である。
『傷官ライプニッツ』のモナドは100年の手前にある。モナドと言う自我は「窓がない」「表象と欲求の宇宙要素」である。
微分という概念の発見から、全体から微細への移動視点を言うが、力点は「意思および意志の重視」であり、モナドに窓が無いの本意
は自我の「完全実体で独立自全性を持つ」にある。自我からの放出を「意志」と呼ぶ事の、共通性が傷官にはある。
『傷官 柄谷行人』・・・・・・「目指したものは外部に出る事」 「最後に残るのは批判力」
「内省と遡行」の序において、自らのモチーフを述べるため 『傷官 ニーチェ』を引く。「主観が主観に直接尋ねる事、あらゆる自己反省
は危険な事である」「意識する全てのものは徹頭徹尾まず調整され、単純化され図式化され、解釈されている」「理性における目的性
は一つの結果であって原因ではない」「存在とは解釈にすぎない」等々の自我の系統性、整合し形式化する体系性は「見せかけの統
一であり遠近法的幻想」であり、内省による自我への中心化を拒否するための「態度変更」がニーチェの多くのメタファー「超人」「身体
」「生理学」「生にとっての価値」「あらゆる量は質の徴候」「権力への意志」を使用しての知的戦略であり、「主観を一つだけ想定する必
然性はおそらくあるまい」「主観を多数とみなす私の仮説」と言うニーチェを我が身に引き付け、「意識に問いながらそこから身をかわし
すりぬけること」「一つの場所に留まる事のない反転に次ぐ反転」の方法を言う。
形式化された言説を批判し、自らは形式化しないと言う方法である。
三年後の同書内「言語・数・貨幣」の序では、カントール(
偏財)の最大遠点からの視点「集合理論」が、無限を刺し込まれて「自己言
及の矛盾」論理的矛盾に陥ること、形式体系はこれを避けて抽象形式化の際に「外部」を手放している、そうせざるを得ない事に無自
覚な、ニーチェを信奉するポスト構造主義(安直な形式主義批判)達に別れを告げてゆく。
論理的矛盾は、正官カントの「主観が客観に見誤られている」、即ち主観は客観には完全には出られないと云う事、「無限」は無限を外
から見る視点を人間に与えてくれないと云う事で、主観の側から
200 年前に決着されている。
客観のまな板で論理実証を言うから混乱するのであるが、客観で言わねば絶対性は確保されない。
傷官のいう「外部」とはどうゆうものか。ニーチェの「権力の意志」を柄谷行人が解する、「意識に先行する諸権力の関係、闘争の場で
あり、そこにおける中心化が意識・主体・真理として現れる場」の事で、フィヒテの「事行
= 行為結果と行為が同時に生じている場」、そ
して後述 『傷官 ジンメル ベルグソン DH .ロレンス』 の言う 「生の現場性」 のことである。
『傷官 モーリス・ブランショ』の「作者をして作品がそれを書かせる」と言う、全体から微分的先端への視点がそれである。
「主客標示」の自我がめがけている網部外側世界は自我と系統する外部であるが、自我に求心内面化はしない全体性である。
世界の自覚は自我の追いかける放出力、世界の変化し顕現する意識前の事象、終わり無く続く全体化への志向性、に拠ってもたらさ
れる。自我の気力の度合いに拠って、世界は次々とめくれる様に発現する。神は自我の方に居るのである。
同じ「ふるさと」を持つ『傷官 坂口安吾』を採りあげて柄谷行人は言う。
「安吾は視覚的ではなくイデア的であり、形はないがリアル現実的なもの、親和的ではなく突き放される堕落と呼ぶもの、無意味では
なく意味がかくされた非意味をファルスと言う」、それは「外部」であると言う。
戦前の「文学のふるさと」ー「プッンとちょん切れた空しい余白」「モラルがないとか突き放すと言うこと、我々の生きる道には、その
ようでなければならぬ崖があって、そこではモラルがないということ自体がモラルである」
開戦の「日本文化私観」ー「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向にこまらぬ」「小菅刑務所とドライアイス工場、なぜかくも美しい
のか、必要のみが要求する独自の形」「大天才でも逃げることができない家」
戦後の「堕落論」ー「自分自身の武士道、自分自身の天皇を編み出すためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」
「一人の哲学者が到達しうる最高の状態、それはすなわちディオニソス的に生存に対して立つということ、運命愛なのである。これが
人生だったのか、よしそれならもう一度。(
傷官)ニーチェ」
安吾に知的一貫性を見、本来激動期の人間である事が戦後の安定期、本人と同じくアンフェタミンでの覚醒が必要だったと説く。
『傷官 折口信夫』も自我拡大に薬剤使用したのだし、ニーチエの時代も外界が緊張させてくれない楽天期で、その中で「非キリスト教
非プラトン 非ソクラテス 非ルター 非ゲーテ 非国家主義 非営利俗物主義 非羊のロマン主義 非ルサンチマン 非ニヒリズム
非禁欲的理想」を気力で放出したのである。フィヒテの時代であれば、自我は健全緊張で外界を生涯追いかけられる。
自らの「ふるさと」は柄谷行人には、一般化された言説が「万人に当て嵌まるのに、この私はそこから抜けている」という意識経験で掴
まれている。
「探求U」での固有名と単独性、そして普遍性へのジャンプがそれである。ここでは形式化一般化された言説の中に「抜けていない私」
固有名に狙いをつける。固有名は単独性であり、一般性の対極である特殊性とは違っている。その一般特殊の水平面から単独性は
対極上方の、「普遍性」に向けて垂直にジャンプする。このドゥルーズ(
印綬)から借りた図式に、デカルト( 正財)の「疑う精神および無
限の観念」と、スピノザ( 正官)の「神の観念」を引きながら、水平面の一般特殊は像を伴う「概念」であり、垂直軸には両者の「観念」が
あてられ単独者の普遍性への跳躍と説く。
概念は原則を導くが、原則は理念に拠って統合方向付けされる。理念は原理に拠って貫かれる。
「超越論的自己とはいわば反復なのである。それはそのものとして在るのではなく、たえず超越論的たらんとすることにおいて在るだ
けだ。それは意志である。しかし自由意志のようなものではない。疑うことは自由意志ではない。一般性の欺瞞を開示する普遍性は単
独性としての主体と、無媒介的にそれ以上基礎付けが在り様のない飛躍として、従って反復としてしかありえない」
私はこの「観念」を、整理言語の身体が持つ「理念」それを貫く「原理」への志向性と呼ぶ。
傷官には「理念」と「原理」世界への強い自我直結感、確信があり、この「理念」の世界に向けてジャンプする。
この「理念、原理」の世界を、プラトンは「イデアの世界」と呼ぶのであり、整理言語身体使用のタイプはイデアを目指すのである。
『傷官 ロマン・バルト』の「零度の文学」と言う薄い本を持っている。有名な「零度のエクリチュール」であるらしいが読みきれない。
「わからないやつは置いてゆく」「説明しない文章」ー「制度に収斂される事のない言葉」「たえず我が身の孤独に罪を感じながら、言語
の幸福を渇望する想像力であり、夢みられた言語」「美で自立する言語ではなく自由で自立する言葉」「批評家がなしうるのは作品の
隠喩を圧縮還元することではなく、それを続けることのみ」「人は自分の欲望によって書く、そして私はまだ欲望しおえてはいないのだ」
「作者、作品の死、テキストの延長、テキストの科学的読解の限界への思考」「科学的記述という幻想を捨て、内部の異和の声を忠実
に再現する」「自分の巣を作る分泌物の中で、自分自身解けてゆく蜘蛛のように主体は解体する」
ヌーヴォロマンの理解者、ブレヒト劇の紹介者、エクリチュール理論の提唱者、ヌーヴェルクリテックの推進者、記号論の論者、構造主
義言語学の伝播者、文学の科学の探求者、このどれにも自分の既得権を主張しないで、初物を喰い続けて行く。
初物としての「記号学」「構造主義」は 「言いまわし、彼らが問題を捉えそれを書式化するときの表現法といったものが、私の中に入っ
てきたにすぎない」 「書物を書くことはある意味で、それを抹殺するため、二度とそれに言及しないためだ」
ー 厳密性を重んじる科学者
然とした構造主義者、そして常にはぐらかし欺き続ける奇術師の様なテクスト論者。
「テクスト論」とは書かれたものを作者から切り離し、自分を語らず論から論へと批判を続ける傷官思考そのもの、自己顕示の有り様を
言っている。
『傷官 上岡龍太郎』ー「親戚の集まりで、コレを言ったら感心されるだろう知識のみに、小さい頃から興味があつた」
『傷官 タモリ』ー「人の知らないことで優越感に浸るのが、人生の八割を占めていて、親から何の為にと言われ続けて来た」
傷官の激動期の本来性は状況弛緩の中では本気になれず、「高慢不億」が男は「虚栄」に、女は「華美」に外側変形してしまう。
『傷官 DH・ロレンス』ー「チャタレー夫人の恋人」著の「生命主義」は要約すると、ニーチェに瓜二つの「キリスト教批判」「現代文明
批判」である。ニーチェ後 40 年の英国生まれで文学者と言う違いのみで、黙示録の新解釈でイエスを「人間の持つ生命力の表現者」
とする「アポリプス論」は日本語版・福田恆在(
印綬)訳で、ここから福田恆在の「劇的人生」が生まれ出る。
以下の「生の哲学」は生命の全体域から形式化して生の跳躍現場を説くため、「生命体モデル」思考とも言い得そうではあるが、大い
に違っている。。
『傷官 ジンメル』の生命は「精神の生」であり、感覚感情の生命体ではない。精神の「より以上の生」へ自分を超えた水平的超越、
そして垂直方向には「生より以上のもの」「理念への転換」でのジャンプを説く。前述「探求U」の図式が 100 年前に言われている。
『傷官 ベルグソン』の意識は「異質なものの浸透継起する自由な純粋持続」であり「精神が弛緩するとイマージュとしての物質に堕
し、持続の緊張は過去のイマージュを保持した純粋記憶(
精神)となる」のである。持続は「理念」であり、緊張は傷官の気力の心構
えを云っている。「空間化された時間軸上での自由論は偽りの問題と格闘するものである」空間化された時間とは像的な概念を云って
いる。「宇宙全体は新しいものの絶え間ない流出である」「自我を統一、全人格的行動表現すること」「純粋持続は個人的、人格的なも
のである」単独性こそが普遍的だと言っている。「持続の緊張」と云う対自の言葉は、対他に直せば「意志」となる。
『傷官 ホワイトヘッド』の有機体哲学は自然科学の成果をも併せ持ち、全ては相互に関係しながら現成する「出来事イベント」であ
り、単独で現れる対象は抽象化による誤認であって、他の諸対象と有機的関連を持たないものは無いとする。人間の実存契機は「永
遠客体」からの理念下降でやってくる。それは他者を把握し自己を形成し「客観的不滅性」をめざす。この客観的不滅性は他の実存契
機に、対象化される事に拠って可能となる。なぜなら個々の実存契機を包み込むように、中心的秩序を与える存在「神の認識」がある
から。「客観的不滅性」とは「神の認識」のことである。
客体対象は全体に系がってやってくること、そして主観から客観へ抜け出ることが、実存の目的であると云っている。自我が外界世界
を知り尽くせば、主客合一して主観はそのまま客観「神の認識」となる。
「外部」とは要素還元、即ち抽象化そして形式化出来ないものの謂であった。「外部に出る事」とは「真の客観」「神の視点」に到ること
、全体を知ることになる。
しかし「無限を外から見る視点には自己矛盾の壁」がある。無限は神の属性、理念は神の思考内容とされてきた。
フィヒテの主観的観念論ー「絶対自我」が目指す「最高統一の理念」も「真の客観性」のことになる。
言説の視点位置、主観形式と客観形式の違いを「主客の大きい方に神がいる」から導くと、主体の側に信があれば、客体あるいは物
事を外界視点で言う事ができる。客観形式は自信を持って「自己矛盾」を隠蔽回避できる形式なのだから。
前項偏財の意識に客観外側視点を取らせる理由を、自我の絶対性と射止めた外界の接触面の隔絶、「実証性」に求めた。
ニーチェの言う様に、「主観が主観に直接尋ねる事」はここには無い。しかし絶対自我の主観形式を採ることは出来る。
本項傷官ではその主客形式の選択は任意という他にない。自然科学の成果をその言説に含めば、その論もその客観形式をなぞる事
は予想できる。ライプニッツの微分の意識もホワイトヘッドの有機体の観念も、全体との系統観を大事とするからの結果である。
とにかく上記の様々な「生の哲学」は、前項までの「生命体モデル」思考との比較で云えば、本項傷官は「理念」と「原理」の「精神体
モデル」思考の生の哲学、と呼ぶ事が可能となる。
『傷官 ウィリアム・ジェイムス』の「純粋経験の世界」は、( 正財)西田幾太郎がそのまま「主客合一の場」として受け取った絶対世
界である。自我は統一されており選択能動的に働くものとされる。「意識は常にその対象中の一部分に対して他の部分に対してよりも
多くの興味を感じ、対象を歓迎、排除あるいは選択するものである」ー自我とは云わず「連続する意識の経験」で押して行く。自我を使
うと主客の境界線が現れ、入魂の「経験」が固定されるから。「経験」は「事実という現場性とメタレベルへの拡がり」の二つを併せもた
ねば、論は成り立たない。経験の内容はむろん感覚感情域ではなく知的精神域へと展開する。
『傷官 大森荘蔵』は何かの度に絶対主観のバークリー( 偏官)に帰る。そして「痛み」を基点に据える。もともとの出発点「物理学・論
理実証主義・分析哲学」で客観世界で知の外形限界を掴み、哲学者としての自己構築を、主観の側からやっていく。
「すじの通った現象主義は現象主義ではありえず、整合的な独我論はもはや独我論でないと私は信じる」「ないないづくしの犬一般な
どは何処にもいない」「「物理的科学的描写は知覚内容を重ねて描いたもので、意味内容を取り除くと成り立たない」「僕は正直に申し
上げてまゆつばだと思う、シニフィアンとシニフィエの対概念はひどく古典的に感じる」「ユークリッド、非ユークリッドはこの同一の所与(
自然数は所与である ゲーゲル)について語るのに異なったボキャブラリーを使っているにすぎない」「私と自然の間に何の境界もない
、ただ私の肉体とそれ以外のものに境界があるだけである、自然の様々の立ち現れ、それが従来の言葉で私の心と言われるものに
他にないのだから、その意味で私と自然とは一心同体なのである」
単独性と、形式化を避けた所与としての「立ち現れ」の外部、この中にはナント内面の知覚・想起・感動・願望・意図・思考も含まれ、内
省求心しない傷官の世界現出にふさわしいものとなっている。
「重ね描き」とは客観とは主観を根拠とした言い換えの形式に過ぎぬ事の、身をもって行う実演実技なのである。
主観からの内省思考は出来ず、客観の最先端を思考する。しかし確信の自我の絶対と、世界への突入を言うためには主観の形式に
拠るしかない。柄谷行人があらゆる言説がその言い換えにすぎぬとして、カントに帰ると同様、「神を抜いたバークリー」から出発する。
大森荘蔵のお気に入り、「ゼノンの背理」は客観論理形式の限界を言うと同時に、自らの「ふるさと」をも言っている。
アキレスが亀に追いつけない為には、アキレスの一歩が徐々に小さくならねば論は成り立たない。形式化によってこの現実長が落とさ
れる。知に拠って外界を追いかけても追いかけても、逃げてゆく外部、傷官のふるさと原風景の事をも云っている。
死について 「それは私迷いの最中です。本当に死ぬというのはわれわれの感じでは、自分がなくなることです。世界に面している私
が居なくなること、したがって私の面している世界もなくなることです。私はそれに恐怖を感じます。この死の恐怖ということから、私は
逃れることはできません。私が持っておりますその死の恐怖の死を、私はまだ見定めることはできないわけなんです。私には見えませ
ん。しかもですね、見えないにもかかわらず、なくなると言う事には冷汗のようなものを感じます。」
意識が無くなることの恐怖を「私の面している世界」が無くなることの恐怖という。「私の面している世界」こそ意識も外側も内側もすべ
てが現れる、突入する「立ち現れ」の世界である。
『傷官 チョムスキー』は唯一人「イメージ直観の偏財言語学」から孤立、それらの重鎮に反駁して戦闘、「チョムスキー革命」と呼ば
れている。言語を分解された要素として見る事もないし、「文芸批評での、百人が無限界読んでたどり着く一致点(偏財・吉本隆明)」と
いう心理での普遍性にも興味はない。・・・・・「文法」である。
「言語修得を可能ににしている根源は、生得的に備わっている普遍文法である」 普遍文法とは原理であり、理念を貫き系統を構築す
るものであり、その身体を我々は持っている。
「生成文法理論」とは チョムスキー自身が、自己の整理言語身体を客観言語学で「重ね描いた」ものである。
政治的社会意識が強く絶対自由主義者、自説を体系化せず散発的、ロマン・バルトに似る。
『傷官 カッシーラ』ー「象徴シンボル形式の哲学」のシンボルとは「精神的生命には内的必然性の刻印と客観性の刻印が押されて
いるのであつて、シンボル形式はゲーテの言う内から外への啓示、世界と精神との綜合を意味し、この啓示と綜合が真に両者の根源
的統一性を保証する」「精神の自立的エネルギーは現象的諸存在に意味と、独自の理念的内容を与える」が同時期のユング(
比肩)
の人間の心理的共通性ではなく、「シンボル形式は他と同一化されたり、他から導入されるものではなく、それぞれが特定の精神把
握の仕方を示し、現実的なものの独自の一側面をその形式の内に、その形式を通じて構成しているのである」「これら形式のシンボル
の文法」を獲得する事が今後の精神科学の課題であると説く。・・・ここでも目指すものは文法である。
「理念は像を伴わない(正官カント)」のだが、シンボルに精神が理念を与える、内側からの啓示シンボル像に。
自我の絶対性と整理言語への確信準備があれば、シンボルは心的暗号から理念を象徴する像にジャンプする。
前述フィヒテ「構想力は無限に進んで行き、ついには最高統一の理念にまで至る」、そしてベルグソン「精神弛緩はイマージュに堕し、
持続の緊張は純粋記憶 = 精神となる」と同様に、自我放出型での理念発現の様相をシンボルに当てて言っている。
シンボルに形式は無く 内容を与える整理言語の方にあるのだが、内省による自我への中心化をせず、表象現出「立ち現れ」場での
瞬時の理性判断で進む傷官自我には、弛緩なき緊張自我の直観はそのまま理念と結びついて「立ち現れ」ると。
「理念は原則が統合される際の指標として要請される」とする、時間をかけて内省する(正官)カントとの違いがここにある。
理念は自我の本性として自覚されているのである。
シンボルに対する思い入れが、以上の言説から派生する。偏財イメージ直観の言語学者はここに最後の触手を延ばす。
シニフィアンとシニフィエの対概念の必要性も、シンボルのことが頭にあれば納得できる。シンボルほど意味するものと、されるものの
繋がりが危ういものは無いのだから、まずそういう分類をしたくなる。が、理路一発の傷官には迂遠な「まゆつば」としか映らない。
『傷官 ナトルプ』ー「プラトンのイデア論」「精密化学の論理的基礎」「社会教育学」 プラトンまで遡行して理念に基く、全対象の「思
考による構成」、その方法論的哲学を提唱ー「何かが意識されるとは純粋自我と関わるということである。しかも意識される内容がい
かに変わろうとも、右の関係は全く同一なのであるから、自我についてはただこの意識内容との関係という一点における自同性のみ
がいえる。自我が何であるかは意識されることもできない」
『傷官 コーヘン』ー「純粋認識の論理」ーカッシーラ、ナトルプを輩出した後期新カント派(マールブルク派)の創始者。
カントが内省によって取り出した「時間は感性と悟性を介在するもので、概念ではない」とする処を、「時空間も思考のカテゴリーである
」として「思考一元論」を説く。時空を越えての(傷官)フィヒテの「絶対自我」の位置である。上述二者も出発の位置を同じくする。
「哲学は数学的無限の概念に拠って基礎付けされねばならない」として「数学の論理」から、「純粋意志の倫理」そして「純粋感情の美
学」を体系づける。「自然科学の哲学的基礎付け」が、新カント派の時代による要請テーマである。
傷官の主たる相性を云う。
傷官は正財を知的誘導、場を得て論は開花結実す。
傷官は印綬によって内省化され、穏和人格的となる。
傷官は正官の正義を破壊する。
傷官と傷官は互いに批判虚栄を繰り返す。
以後、絶対自我の「自由と理性の展開」を抜粋。
『傷官 エルンスト・ブロッホ』ー「ユートピアの精神」革命的神秘主義、黙示録解釈、独善独創難解、ベンヤミン(印綬)に影響。
表現主義を擁護「救いを求める叫びこそ表現主義だ」、エクスタシー、現実からの跳躍、形式破壊、自由創造、幻想、新宗教、墓石に
は「考えることは乗り越えること」ーロマン・バルトに似る。
『傷官 シャトーブリアン』ー仏のロマン主義の父−「フランス革命の高揚と嫌気、アメリカ資本主義への幻滅、キリスト教への回心、
ナポレオン下の外交官、王政復古の外務大臣、七月革命後は正統王朝主義」という自己史の中、自己正当性「絶対 永遠 無限への
欲求」が「人生を生きようとせず、ただ眺めているだけ」となる青年の倦怠とメランコリー、世紀病その苦悩を語って、以後のロマン派か
らデカダンに至る対他の自意識文学の先駆者となる。緊張の時代に生きても更に、理想の社会は遠のいてゆくのである。
『傷官 カーライル』ー「衣服哲学」−「哲学とは徹頭徹尾習慣との絶えざる闘いでなくして、何であろうか。盲目的な習慣の領域を乗
り越え、超越的たらんと、常に活を入れ直して努力する事意外の何ものであろうか」
歴史小説「フランス革命史」は、「自由・平等・友愛」の美名の下の流血悲劇を、「理念の失敗」として描く。
『傷官 アドラー』はフロイト(食神)の弟子であり、「性欲」の代わりに「権力衝動」を根源の動力と考える。ニーチエに似る。
『傷官 マックス・シェーラ』「哲学的人間学」ー「人間はその自由な決断において神がおのれの本質を実現してゆく存在者であ」「神
へ至る最初の通路となるのは人間である」「神の無限な精神と衝動との有限な像が人間であるからである」ーフィヒテに似る。
『傷官 賀茂真淵』「国意考」は古道の自然主情主義に拠って儒教の合理主知主義を撃つ。漢意(
カラゴコロ)批判初めの書であり
、アポロンよりもディオニソス、「万葉主義」で行けというニーチェより
150年前のものである。これを受けて宣長( 正財)の「さかしら」を排
した、古文辞学に拠る「国学」が完成する。
傷官と正財の最良なる相性がここにある。傷官ジャンプの基盤、正財の常識リアリズムとの組み合わせである。
『傷官 江藤淳』「新しいものは新しく導入されたものではない、変わらぬものに無知であるままに、なにを変革することもできない」と
いう、その精神の中に次項「正財の精神」との融合がある。
最良なる精神の相性は坂本龍馬に木戸孝允、折口信夫に柳田国男、高浜虚子に正岡子規、武者小路実篤に有島武郎、柄谷行人
にデカルト、ブランショに天沢退二郎、キング牧師にガンジー、昭和天皇にマッカーサー、足利義満に三島由紀夫と両人名リストをつき
合せて行けば「ああソウカ」が現れる。
柄谷行人はフッサール( 印綬)の内面に尋ねる方法を中途断念して、デカルトの疑う自我を「批判する自我」と解し、ドゥルーズ( 印綬)
の垂直ジャンプ図の中、キルケゴール( 偏官)をデカルト(
正財)に差し替えて自己構築を行った。
フッサール( 印綬)への断念無く統合を行ったものが、『傷官 大森荘蔵』のバークリー( 偏官)を借りた「立ち現れ」と「重ね描き」の世
界である。「重ね描き」の方にフッサールは生きているのである。
デカルトでは個別の実証精神は云えるが世界全体が自我に対峙しない。「超越論的視座」が低いのである。後にカント(
正官)の「自由
の自律性」を借りて「絶対自我の自由」の言い換えとするが、カントの精神は柄谷行人の精神に馴染まない。
『傷官 ルター』ー「奴隷意志論」ー「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であつて何人にも従属しない、キリスト者は
すべてのものに奉仕する僕であつて何人にも従属する」「人が義とされるのは律法の行いによるのでなく、信仰によるのである」
印刷技術が聖書を自前のものとさせ、教会を我が家とさせる。「自由」が放出される時代、日本は一向一揆の時代である。
『傷官 モンテスキュー』「法の精神」ー「法とは物事の本質からの必然的関係である」抽出された「三権分立」の原理と理念は、合衆
国憲法、フランス憲法、そして我国の憲法にも「精神」として生きている。「三すくみの原理」という単純原理である。
『傷官 カーライル』ー「衣服哲学」ー「哲學とは徹頭徹尾、習慣との絶えざる鬪ひでなくして何であらうか、盲目的な習慣の領域を乗
り越え、さうして超越的たらんと常に活を入れ直して努力する事以外の何ものであらうか」
『傷官 マイネッケ』理想主義的個人主義者「世界市民と国民国家」「近代史における国家理性の理念」「ドイツの悲劇」はマキャベリ
ズムの歴史、その精神的克服の書であり「歴史を書く人は新しい歴史をも創造しなければならない」「彼が映そうと欲する一般的な生
成の流れの断片をも創造しつつ映さねばならない」歴史記述に個性、単独性から普遍への跳躍を言い「自由は創造的、個性的精神の
精神的道徳的衝動によって生じるもの」となる。
『傷官 ブブカ』はウクライナの貧困のなか子供達への慈善行為で「自由の一番大事」を説き、そして日本で垂直跳躍す。
『傷官 三浦梅園』ー「玄語」は陰陽気の弁証法的自然解釈の書である。が、「人造は理先んず、天造は気先んず」と言い人の価値
は「理」と「活」に置く。豊後聖人と謂れ、村々の騒動及び宗教者の争いの仲介和解を行う。
『傷官 宮沢賢治』ー「北ニケンカソショウガアレバ ツマラヌカラ ヤメロトイウ」
『傷官 昭和天皇』最後の歌「やすらけき世を祈りしも いまだならず くやしきもあるか きざしみゆれど」(
戦没者追悼式にて)
『傷官上杉謙信』ー「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 さもあらばあれ家郷遠征を憶う」
「四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒 嗚呼柳緑花紅」
「いきどほる心すべなし手にすゑて 蟹のはさみを もぎはなちたり」
『傷官 折口信夫』
