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せい めい たい
生命体モデル
しょく じん
(白部は主体を示す)
主 客 標 示
標語 「食禄福兆」「心底明白」「明朗揚気」「万物感興」
食神サンドイッチ
食神
しょく じん
食神人名リスト
マックス・ウェーバー リルケ フロイト ホッブス ラジシーニ コリンウイルソン
コペルニクス ホーキング
ピーター・ドラッガー ウスペンスキー ドンケル 初代ロスチャイルド エリツィン バッテン総督 ケビン・コスナー
コール首相 オッペンハイマー ミシェル・ビッコリ ロバート・テイラー ナタリー・ウッド パゾリーニ イブ・モンタン ガリ総長
エジンバラ公 マイルス・デェビス マリア・カラス ドナルド・キーン ランボー マドンナ シャロン・テート キャサリン・ロス
グレース・ケリー チャフラフスカ カール・ルイス ヒトラー フランコ トルストイ ラファイエロ ルイ14世 ビゼー
ゴーリキ クーザン モリエール ラシーヌ シュレーゲル弟 ラ・メトリー マリヴォー ラフォルグ ハイドン コペ
クロップ・シュトック チェザーレ・ベッカリー イェーツ プランク マックス・シュティルナー ミロシェビッチ
アルバート・ヴェン・ダイシー マンハイム サムエルソン アンリ・ピレンヌ ドナルド・キーン フリードリヒ・ハイエク
ユイスマンス ムソルグスキー チユイコフスキー モーリアック ジヨージ・ルーカス ストラヴィンスキー ユージン・スミス
ミレー ドガ サミーソーサ パブロ・カザルス ベングリオン アーノルド・パーマー ニコライ 2世 ジエロム・レ・バンナ
マクスウェル カストロ リバウド ノムヒョン大統領 モーリス・ルブラン タゴール ポール・ポワレ ニジンスキー
フランシスコ・ビリヤ HG・ウエルズ フリッツ・ラング カールマン・ハイム アントニオ・モリス レーモン・ラディゲ モンドリアン
ロバート・キャパ M・トハチェフスキー マンデリ・シュテーム ガブリエラ・ミストラル オッペン・ハイマー ノイマン
ウィリアム・ワイラー ポール・サミュエルソン チョン・ジュサン ウジェーヌ・イヨネスコ フェデリコ・フェリーニ ネーウィン
ナンブー・ディリ・パードゥ バーバラ・レイノルズ マカリオス 3世 ゴ・ディンジェム テレシコヴァ ゴルダメイア アサド
グスターフ・フサーク アームストロング ポール・サイモン アンドレイ・サハロフ ボブ・ウィドワード マイケル・ジャクソン
ローラン・バコール ローラー・ダン ティア・カレル スー・リオン アリダ・ハリ シーン・ハロー ララ・フリンボイル
フランソワーズ・ドルレアック ファラ・フオーセット ナスターシャ・キンスキー シビル・シェパード サンドラ・ディ
アリ・マッグロー ロッサノ・ブラッツイ レオナルド・デイカプリオ リーアム・ニーソン モーリス・シュバリエ トーマス・ハウェル
デエニス・ウィーバー ティム・ロス ジヤン・クロード・バンダム メンデル
井伊直弼 永井荷風 高橋鐡 吉田松陰 伊藤雄之助 東郷平八郎 二宮尊徳 板垣退助 島津久光 長嶋監督
川島紀子 磯村尚徳 料治直矢 寺田寅彦 所ジョージ 松井秀喜 長谷川町子 ドクター中松 手塚治虫 糸川英夫
毛利元就 三波春夫 松本零士 石森章太郎 永井豪 大宅映子 和田勉 渡辺和博 堺すすむ 東野英次郎 横路孝弘
山城新伍 飛鳥田一雄 石原吉郎 椎名悦三郎 丹下健三 浜田幸一 五社英雄 中曽根康弘 石坂泰三 秋田明大
大森実 俵孝太郎 梅原猛 篠山紀信 河口慧海 是川銀蔵 森本毅郎 高橋源一郎 半村良 塚本邦雄 小田実
加藤清正 井上ひさし 赤瀬川原平 大江健三郎 坂本多加雄 金井美恵子 高橋克彦 上山春平 なだいなだ 高橋和巳
三浦朱門 夢枕獏 寺山修二 村松友視 山口瞳 庄治薫 平野威馬雄 赤坂憲雄 青木雨彦 高橋たか子
山村美紗 内舘牧子 沢田隆二 馬場あきこ 四方田犬彦 森敦 佐々木基一 宮本亜門 猪俣公章 山本晋也
石井普雄 佐藤忠男 塩田丸男 秋山仁 落合信彦 武智鉄二 東郷青児 都倉俊一 ばばこういち 別役実
小島功 池田弥三郎 芥川龍之介 花田清輝 尾崎行雄 寺島アキコ 宮城音弥 山崎豊子 亀井勝一郎 鈴木大拙
江戸川乱歩 河上徹太郎 福来友吉 栗塚旭 麿赤児 宇野鴻一郎 高樹のぶ子 秋田実 丹下健三 溝口泰男
水の江滝子 高嶋政宏 岸谷五郎 橋爪功 芦屋雁之助 有森祐子 松下賢次 中尾彬 谷村新司 川合俊一
梅宮辰夫 長門勇 阪神・若菜 森末慎二 由利徹 コロッケ 巨人・定岡 泉谷しげる 南こうせつ 小島一慶
池谷幸雄 長谷川法世 高野進 吉田戦車 佐藤 B作 キャイン天野 柴俊夫 松尾伴内 花菱アチャコ 島田竜介
ピーター 嵐寛寿郎 山岡久乃 篠ひろ子 加藤剛 河原崎長十郎 松鶴家千歳 ミヤコ蝶々 北島三郎 長谷川一夫
山本圭 笑福亭松鶴 いかりや長介 常田富士男 トニー谷 森田健作 柴田恭兵 田原俊彦 倉田保昭 風間杜夫
山下達郎 大槻ケンジ 因幡晃 田中星児 奥田民生 喜多郎 坂崎孝之助 片岡鶴太郎 トータス松本 桂歌丸
愛川欽也 三益愛子 松方弘樹 真屋順子 石井苗子 カルメンマキ 東ちずる 渡辺満里奈 岩下志麻 森口博子
塩田広重 大澤正明 沢田隆治 今里広記 大楠道代 浜美枝 十朱幸代 江角マキコ 神田うの 沢田亜矢子
一色紗英 佐久間良子 杉田かおる 山口百恵 三田佳子 千原しのぶ 島田陽子 岸本加世子 今井美樹 京まちこ
山本富士子 太地喜和子 片平なぎさ 栗原小巻 池波志乃 中尾彬 中島五月 松阪慶子 布施明 北大路欣也
岡林信康 八千草薫 タケカワゆきひで 三田村邦彦 小林幸子 相本久美子 扇千景 朝比奈マリア 桜田淳子
大空真弓 欧陽菲菲 戸川純 西本聖 巨人・平田 山本泰裕 槙原寛己 坂本都子 松岡洋右 大川周明
大川隆法 麻原彰晃 岡崎一郎 中江滋樹 倉田まりこ 三浦和好 佐川一政 岡本公三 金日成 堤清二 堤泰次郎
池田大作 大内早苗 遠藤誠一 早川紀代秀 横山真人 松本剛 上田耕一郎 小泉純一郎 二階堂進 中川一郎
鈴木善幸 加藤六月 安藤昇 橋本龍太郎 橋本大二郎 荒木一郎 宅間守 新井白石 蓮如 宮崎滔天 三塚博
立原道造 吉野作造 星新一 黒田清輝 緒方洪庵 天本英世 元田永孚 高野悦子 水島廣男
中尾栄一 木田タロー 正津勉 小村寿太郎 杉浦重剛 三遊亭円朝 宇多田ヒカル 辻元清美
初代・中村吉右衛門 近藤芳美 趙紫陽 古尾屋雅人 徳富蘇峰 徳川家光 堀内光雄 今井俊満 塩川正十郎
山口誠 小暮政次 町永俊雄 中谷元 前田晃伸 鳥山明 舟木一夫 田中耕一 大社啓二 住宅顕信 真山勇
阿川佐和子 安原顕 森本敏 ゴルゴ松本 大川功 小倉智昭 川平慈英 伊藤克信 梅垣義明 ネプチューン・原田
織田無道 小峯麗奈 高田渡 東千代之介 小林桂樹 小林稔侍 斎木しげる サンダー杉山 バッテン荒川 横光克彦
赤星昇一郎 赤木春恵 阿川泰子 あき竹城 天地総子 石川さゆり 一谷伸江 華原朋美 川中美幸 坂本冬美
白川由美 真行寺君枝 鈴木光枝 東郷晴子 三井ゆり 南美江 奈良岡朋子 渡辺みなみ 玉袋筋太郎 グレイてる
水谷実雄 前田幸長 入来裕作 河野博文 岡林洋一 飯田哲也 達川晃豊 広島・ミンチー アリアス・阪神
稲本潤 梨田監督 金本知憲 矢野輝弘 日ハム・フランクリン 近鉄・クラーク 谷佳知 川相昌弘 佐々木主浩
中村紀洋 近藤監督 島野育夫 北別府学 春山行夫 三好達治 吉田一穂 高橋元吉 平畑静塔 近藤芳美
木下夕爾 富安風生 土岐善麿 川田順 会津八一 鳥谷敬 斎藤緑雨 森信三 今井雅之 原口一博 蒲原有明
中村獅童 ペナルティ・ワッキー 二挺拳銃・川谷
飛石連休・藤井 ダイノジ・大地 小島奈津子 三輪隆 神取忍
辻希美 小倉弘子
食神考察
地球を取り巻く「気」には年月日時の四層あつて、地表面のその日の「気」に自我がやどる。上空にはその月の「気」がありこれが主
要な外界となる。自我の気が外界に放出される関係を「食神」という。この生日の気の身体は、小を肉体とし大を月を含めた地球身体
域に達す「心のふるさと」となる。この気の力の状態を四柱推命では性情といい、食神の場合「食禄福兆」「心底明白」「明朗揚気」「万
物感興」の標語で示す。私は併せて下から上に帰納可能な「世界観」という整理の言語を使って、哲学者の「主客の配置」からの欲望
集約点「価値観」を云うこと。これが本文の主旨である。
経験から言える食神性情の要点は「腹の底が丸見え」という所と、「事の大小を構わず楽しむ」自然の楽天性、身辺では「消費の神様」
と呼んできた。私自身が長い時間性に焦点できる歳になったある時期に「なんと空っぽの心性ですべてに楽天で、しかもそれがいい感
じで他人に円滑さと充実をあたえている」思っていなかった理解をかみしめる。
その頃わたしは肯定的思考の「わたしたちの身体はオシンの話しやハチ公の話しに泣いてしまう自動制御の効いた原生動物の様に、
目標を探し向かってゆく欲望生命体であるから」「すべてを考え切ったら捨てて」「いまここにあるものを肯定し」「その肯定域で可能な成
功の経験をくりかえす」「この成功経験は大きさに関係なく,繰り返しの身体化こそを大事とす」「成功経験が身体化された周囲では、今
度は成功が起こりやすくなる」等々に理があるのではと感じていた。
ポジシブを肯定的ではなく積極的願望達成と受けとると逆転する、とも思っていた。
この「事の大小を問わず」という微妙な域を、食神は自然にやっている。要は本人の無意識を裏切っていないと云う処である。
本人の無意識が周囲のそれと重なる事も大事である。
食神は周囲から「御神輿に乗せられ、又据え膳が多い」というのも、身体化された楽天の成功経験が状況を呼んでいるのである。
「この人を喜ばせたい」「世話をすることが嬉しい」と言う気持ちが、不思議に周囲に湧きあがる。
表題に使った「サンドイッチ」は昔の、ビートたけし( 偏財)の長嶋さん( 食神)とゴルフに行った話。
「たけしさんチョット知合いがいましたから、って待っていたらナカナカ帰ってこない、探しに行ったら向こうの方で、テーブルに一人座って
長嶋さんサンドイッチを喰っていた」 と言う話から貰っている。長嶋監督は私にとっても食神の良き標本である。
しかしストライクの入らなくなった角と槙原を、グランドでさらし者にしたと云う事も覚えている。 それもこれも含めて食神性情である。
自我が世界に対して放出される様を主客標示で左上図に示す。
白部自我が網目世界をその接触面で,深く味わいながら対象を目掛けている。表現できていないが両者は動いている。対象に毛がは
えているのはその為、および接触面を増やし深く味わう事の官能性をしめす。
作図の工程は「まとめ」の項で示すが、記憶術としては「少年期の欲望対象異性性器」である。この欲望対象に突き進む単純自我の世
界観、対象を感覚感情身体で深く味わう事を価値観とする食神哲学者達は、その多くが「生命体モデル」で思考する。
自らの「心のふるさと」がその人物の世界観となって表われる。
仮説をはじめる。
『食神 フロイト』の欲望一元 「リビドー説」は、無意識の中心から生命エネルギーが外界に向けて放出される。外界は快感原則で進
む主に性的な対象物である。対象物と出会う場所と出会い方の思考が全てである。
それは命名され「自我 イド 超自我 プシケ 夢の仕事」「置換え 攻撃 昇華 象徴化 除反応 退行 抵抗 転移 取り入れ 防衛
抑圧」「エディプスコンプレックス 去勢コンプレックス 神経症 ヒステリー タナトス」等々と、自由であるべき放出が「抑圧」され変形
される様が示される。価値はエネルギーの自由さにあり、忍耐せずにストレスは解消すべしの訓を読者は受け取ることとなる。フロイト
は被虐自己破壊する患者を見て「死の本能タナトス」を万人に共通原理としてあてはめる。死の本能も内面奥から立ち上がり、罪の意
識,良心を担う「超自我」さえも自我奥からやってくる。
タナトス原理は後に撤回したとする本もあるが、私には食神の内面がここに現れたと直感する。食神が死について自己省察する時、全
ての表象は意識の前に内面内側から現れ、その所在を緻密には告げてくれない。外側への放出型である為に、過去時間の系統には
腐心せず未来時間の楽しみに心をくだく「ふるさと世界観」のなせる業である、と。死への衝動が内面からの欲望として意識に受け取ら
れるのである。
『食神 ホッブス』は、フランシス・ベーコン(
劫財)の秘書であり、デカルト、ガリレイとも会している。「リヴァイアサン(
ヨブ記の怪獣)」は
ピューリタン革命の嵐吹き荒れる中、市民革命として拠って立つ原理「社会契約説」を説くもので、ルソー( 比肩) の時代まではまだ100
年以上もある。第一部「人間について」でホッブスは言う。
「人間の心は感覚、思考 、思考の連鎖以外の運動はもたない」「あらゆる思考の始原は感覚である」「外的物質が器官を圧迫し、そ
の圧力は反対圧迫すなわち心の運動の小さなきざしを生じさせる。この小さなきざしは外部に向かっているので、何か外的な物質が
そこに存在しているかのように思わせる。そしてこの外観すなわち想像が感覚である」「物質と感覚のぶつかり合いから行動への意志
が生じ、次から次へと力を求め、死によってのみ消滅しうるような不断の意欲が全人類の一般的性向である」「より大きな力をもとめる
休みを知らぬ欲望である」「運動は生命の証しであり、運動は運動以外の何もうまない」「思考とは衰えゆく感覚としての映像である」
「万人は万人に対して狼である」 等々の地平から「社会契約」という「抑圧」説を言うのである。
休みを知らぬ欲望の自然権の承認、そして自然法をたてての制限を、各人の権利の相互的譲渡契約を「社会契約」という。
「欲望生命体モデル思考」がここに在る。
欲望生命体は自分のこと、性情、世界観、自らの心のふるさとのことである。
『食神 マキアヴェリ』はホッブスよりも 120前のフィレンツェの外交役人。自由都市「花の都フローレンス」の消滅局面で「君主論」は現
れる。ルネサンスのヒューマニズムには人道主義は無く、在るのはギリシャ人間主義である。人道は整理の思考によって育つ。理性啓
蒙の時代にはまだまだ遠い。君主論は権謀術数のマニュアルであり、次のように言う。
「国家をうちたて、それに法律を整備させようとする人は、次のことを肝に銘じておく必要がある。すなわち、すべての人間はよこしまなも
ので、自由かってにふるまうことのできる条件がととのうと、すぐさま本来の邪悪な性格を存分に発揮しようと隙を窺うようになるものだ
と云う事である」「人間というものは善よりは悪に傾きがちのものである」「人間はどれほど善良に生まれつき、どんなにすばらしい教育
を受けたところで、なんとやすやすと堕落してしまうものか」「そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、偽善者で、厚かましく、身の危険
は避けようとし、物欲には目のないものである」「愛されるよりも恐れられよ」「加虐行為は一気にやれ」「恩恵は小出しにやれ」「運命の
神は女神であるから、彼女を征服しょうとすれば、打ちのめしたり,突き飛ばすことが必要である。要するに、運命は女性に似て若者の
友である。若者は思慮は深くなく荒々しくきわめて大胆に女性を支配するからである」
欲望人間主義の負の地平を叩くため、これまたそれ以上の負の人間主義を当てている。自我放出型の食神には権謀術数は実行で
きない。夢想するのみである。腹の底が丸見えの権謀術数家など成り立たない。マキアヴェリは欲望生命体モデル自分の限界を言っ
ている事になる。そして思考し、そこから君主をも、またもや欲望している事になる。。
君主論の後世への影響は大きい。以下の意見も参考となる。
「ガリレイが一世紀後に落体の運動について試みたと同じ精神で、政治の運動を解こうとし、政治闘争をチェスのゲームのように眺め、
このゲームの規則変更、あるいは批判はしようとは考えなかった( 正官カッシラー)」
このガリレイの力学精神はホッブスに乗り移り、先のホッブスの文章を読みづらくさせている。
「当の人物は地獄の恐怖を知らないで、古代的素朴さで国家理性の本質を思考した( 傷官マイネッケ)」
「政治思想の真髄を徳ではなく活力、功名心、犠牲心、知恵と運命そして必然必要の概念でかんがえた( 同 )」
「あらゆる打算にもかかわらず好人物で情事にかけては放恣、友に対して誠実、愛すべき饒舌家( 遍財ディルタイ)」
これら三者三様のふるさとからの見解の内、ディルタイ( 遍財)の感覚感情身体がマキアヴェリの全体をよく掴んでいる様に見える。相
性の問題として全項にわたる形で解明する。
『食神 ラ・メトリ』はロック( 比肩)の「感覚論」とデカルト( 正財)の「動物機械論」を梃子として、自らの医学知識から「人間機械論」を
叙して、キリスト教的人間観、医学会に敵したフランス啓蒙思想における唯物論の代表者である。本意は「快楽説の擁護」であり「感覚
が無ければ観念は無い、感覚が少なければ観念も少ない、教育が低ければ観念の数も少ない」「人間は自らゼンマイを巻く機械、経
験を積んだ機械、垂直に立つ機械である」
言いたいのは、人間も動物と同じく欲望で動いていると言う事である。
『食神 マックス・ウェーバー』のプロテスタントの禁欲精神が、かえって資本主義発展の原動となったとする「プロテスタンティズムと
資本主義の精神」が腑に落ちない。経済学で労働価値説があるし、労働に価値を置かない社会はない。特にカルヴィニズムの「予定
説」が、目的としての富を否定し、結果としての富が救いの確かさを証明するものとなる。この精神が資本主義を押しあげる・・・・。
・・・このことが商工業名門のウェーバー家で起ったのだ。鼻先で起こった市民的経営資本家の歴史を一般化したのである。
自己の視点の問題「客観性」「価値自由」「人格」「心情倫理と責任倫理」を提示して結論は得られない。
「世界宗教の経済倫理」はフロイト理論の影響大との事、「実行不可能と思われる原理のドン・キホーテ」との評もある。
「社会を個人の行為とその動機に即して考える」とするウェーバー社会学には何かが欠けている。それが言えれば食神をその言葉を使
って言い得た事になる。「動機に即して」はまさに生命体モデル思考なのではあるが。
「禁欲は現世を改造し、現世の内部で成果をあげようと試みたが、そのために現世の外物はかえって歴史にその比を見ないほど強力
になり、ついには逃れ得ない力を人間の上に揮うに至った。ともかく勝利をとげた資本主義は機械の基礎の上に立って以来、この支柱
を必要としなくなった」 禁欲と機械が一般化されて、まるで原理の様な抽象的言い方をもっている。が、帰納して抽象する納得の段階
はなく、すでに一般化されているもの同士の因果の薄い並列になっている。
ウエーバ家の「禁欲ー貯蓄ー新たな投資資本」を支えたものは、資本主義の「消費の欲望」であり、経営資本の蓄積は「何時でも消費
できる権利」の欲望である。
「支配の社会学」での「合理化」という一般概念も、同様のイメージ思考によって他の一般概念と結ばれる。
一般化とは何かと言うに、「一般化されたものは、外側視点ではみんなに当て嵌まるが、内側視点では誰にもあたらない」もので、だか
らすぐに人に言いたくなる。それで終わるだけのものだが感情域では違っている。一般化されたものを交わし合って感情身体を大きくし
共感している。自我肥大する事は快なのである。
『食神 マックス・プランク』のエントロピー増大「世界は負のエネルギーが増大し崩壊する」の説も度々耳にしたが、この内容を我々の一
般通念世界に持ち上げ様とする話手の快のみではなく、ブランクの「物理学的世界形象の唯一性」への希求と言う本性が、この内容
自体にあるのである。その内容とするものと、取上げられて花やがれる度合いのギヤップは、思考の基底にイメージ思考があるからで
ある。概念と概念が直感イメージでむすばれる。ロマンの放出である。
『食神 モーリッツ・シュリック』はプランクの弟子でウィーン学団というサークルの結成者で、テーマは論理実証主義なのだが、「倫理
学の諸問題」では快楽主義的人生観と芸術という本音の処が現れる。人が集まるのである。
ウェーバーを生命体モデルと見れば、快は宗教倫理では無く宗教文化である。「ルネサンス以来の宗教文化精神が資本主義発展の
原動となった」と言ってくれれば、完全に腑に落ちる。これまた因果の系統感は薄いが本物よりもましである。
しかしウェーバーの快はもう一つの「時代の一般化された言説空間」での一般化である。ドイツ第一次大戦前という時代が言わせてい
る。ウェーバー家の文化サロンにはジンメル( 傷官) ヤスパース( 偏官) 夫妻等の多くが出入りする。ウェーバー夫人の「ウェーバー伝」
で『食神リルケ』の詩に託して、時代が終わろうとする時その価値を総括する人と夫は称される。自画自賛と言うのか、ここからはウェ
ーバーの身体と交友共感した周囲の空気が推察できる。
『食神 梅原猛と食神 上山春平』の京都サロンをも連想させる。『食神 半村良』と梅原猛を中上健次(劫財) が敬愛したのも良く判る。
ウェーバーには禁欲と言う負の欲望もフロイトの死の欲望原理と同様に、本来性のものと受け取られたのかも知れない。
この食神特質「死の本能」は後に列記してみるものとする。
『食神 マンハイム』の「イデオロギーとユートピア」も、鼻先で起こるナチズム前夜の「時代の言説空間」の中、イデオロギーとユートピ
アの表象イメージ思考の提示となる。「様々な社会層は様々なユートピアと結びつくことなしには歴史を変形しえなかった」「イデオロギ
ー的なもの凋落は特定階層の危機を示すにすぎないが、ユートピア的なものの完全な消失は全体としての人間の生成の形態を変え、
人間自身が物となるような静的な即物性をもたらす。自己を支配する人間が衝動のままに動く人間になり、歴史への意志と歴史への
展望がうしなわれる」それが現在であると。
ウェーバーの影響と「ユートピアの精神ーエルンスト・ブロッホ( 傷官)」からの言葉の一般性に影響されている。
ウェーバーと同じくどこか捩れている。ナチズムはユートピアと歴史への意志をもつている。
しかし何とか個的な「自由」は救われている。イギリス亡命後は「自由のための計画」を提示する。
『食神 シュテルナー』の時代は捩れていない。「惟一者とその所有」は、フォイエルバッハ( 比肩)の人間の本質を共同主観性とする
説にたいする、徹底的個人主義擁護の書である。「かかる立場は、自我性を公共性に吸収されて、その前で躓く宗教そのものである」
「旧宗教は自然的掟として、今の人間主義は類的普遍としてという差があるのみで、両者ともに固有的自我性を無力化する疎遠な力を
侵しえぬものとして自立化させ、もって個我を単なるそうした力の無名のサンプル歯車へとおとしめている」人道的自由主義に対し不可
換なる自我の発現と自由な連合を対置する。食神が社会視点を取ってなお、自己食神原理を言明した場合の標本である。
『食神 ハイエク』もまた徹底的自由主義論者である。徹底的自由主義経済論が「貨幣理論と景気循環」であり、五十年後のバブル期
に見直される。従兄にヴィトゲンシュタイン( 偏官)がいる。「偽りの知識」では自然科学至上主義を徹底的に批判、「隷従への道」では
社会主義を徹底的に批判する。
『食神 コリン・ウィルソン』は解説書に拠らずに実感をいえる。最初に読んだ「性の衝動」は『食神大江健三郎』の「性的反抗的人間」
という言葉と一緒に、私の整理の身体に焼付いた。実存に即して考えればいいという手ごたえ、大江健三郎の、時代で生かされている
様な言葉。「隠遁者ギー」の命名感覚、四国の山奥に隠遁者ギーはいた。コリン・ウィルソンはホワイト・ヘッド( 傷官)を批判しながら自
説を言う。両者伴に「生の哲学」だが、ホワイト・ヘッドは時代の最先端の科学的成果を統合してジャンプする。今に想えばこれをイメー
ジ思考でコリン・ウィルソンは批判していたのである。食神は感興する自我本体に神がいる。「主客の大きい方に神がいる」という仮説
は追々に説明する。原因を追いかけず感興しながら並列的に繋いでいく方法は、「復興期の精神」の『食神花田清輝』に言われた「大
胆なレトリックと弁証法」というものである。食神花田清輝に転向問題は生じない。『食神亀井勝一郎』にも同様に。
コリン・ウィルソンの読書量の多さは、『食神四方田犬彦』の嘗め回したような読書歴を見た、その驚きと同じものである。『食神高橋和
巳』は大江健三郎に、作品中の語彙の感覚を貶されて激怒した。イメージ思考は語彙に込めたニュアンスで、概念のコラージュとその
配分量を指し示す。概念は多量にあるが、理念は唯一つ「プラスの実存主義」である。身体大きくしての時代への感興力が命となる。
だからあらゆる意味で先の「一般性」にそのつどその言説は留まり、時代に拠って風化する。
『食神芥川龍之介』の文体も「隠遁者ギー」と同じく輝いていた筈である。
コリン・ウィルソン「アウトサイダー」は「病におかされていることを自覚しない文明にあつて、自分が病人である事を承知しているただ一
人の人間」突破口は「ドロップアウト」そして「想像力あふれる高い精神」である。福田恆存( 印綬)訳というのに驚かされる。
ボードレール( 正官)以来の一般的言説を楽天志向に反転させている。「物質よりも精神」と言う、その精神は悲観するショウペン・ハゥ
アー( 正官)の自己内面への脱出口、東洋思想、瞑想を反転させての、楽天的外側イメージ「超能力」である。
SF小説バンパイヤ戦争だったか「死の本能」がテーマとなつていた。
作中の異常性欲者に乗り移り、舌なめずりするような表現があつた、そういう小説も場面のみ憶い出す。
『食神 半村良』の「産霊山秘録」「妖星伝」はその時代、文句のない「新感覚とおもしろさ」の大傑作であった。
絵空事ではない「現実感 リアリティ」が、突き詰めた論理的了解性からではなく、イメージ思考に拠る自我拡大の「生の喜び」からやっ
て来る事に痛感させられた。
自我拡大し身体大きくしての時代との一体感で、日大闘争のリーダー『食神 秋田明大』は悩んでいた。その様に新聞コラムにあった。
「自分は馬鹿だから、興奮の日々が忘れられず十年間酒びたり、以後故郷広島で修理工をするが、見合いで結ばれた妻は子供を連れ
て実家に帰った」と。
フォークの神様 『食神 岡林信康』 と 『食神 高田渡』をくらべると、高田渡のほうが日保ちが良い。対他の自意識だけであとは日常性
が救っている。「消費の神様」は「生の肯定シンボル像」として、一般社会域で「深く考えない思考」によって「消費」されるのである。
以下フロイト「タナトス原理」を、他の食神に当ててみる。
「昭和精神史」桶谷秀昭( 正財)は『食神 永井荷風』の文章を引き、昭和 6年 12月 1日玉の井に行く大回りの道々荒川放水路の風
景が荷風の「心に食い込んだ」と書く。電車を乗り継ぎ中川堤防を歩き「船堀橋の下流にまた一長橋あり、日は既に没し夕陽の空暗く
なりし時かの橋の袂に辿りつきぬ。葛西橋の三字をよみ得たり。葛西橋の上より放水路の海に入るあたりを遠謀したる両岸の風景は
荒涼寂莫として、黙想沈思するによし。橋上に立ちて暮煙蒼茫たる空のはずれに小名木川辺の瓦斯タンクの塔の如く、工場の煙突遠
く乱立するさまを望めば、亦一種悲壮の思あり。銀座に出て夕飯をなして直に家に帰る」桶谷秀昭もまたこの地を踏査する。
この日以来のほとんど妄執と化した当場所風景への大回りの道。「平素胸奥に往来してゐる感想に能く調和する風景を求めて瞬間の
慰籍にしたいためである」「それが何が故に、又何の為であるかは問い詰められても答えたくない。唯をりをり寂寛を追求して止まない
一種の『欲望』を禁じえないのだと云う外はない」「ここに杖を曳く時わたしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き
けされる自分の跫音を聞くばかり」を桶谷秀昭は死の想念にしては生くさい、官能的な死の慾情に掴まれていると書く。
「死は彼にとって精神の問題ではなく肉慾と根をひとしくする官能的自然であった」「肉慾の歓楽と根を一つにした悲哀寂寛である」「玉
の井の発見は荒川放水路の風景に偏執する慾情を媒体として生まれた」死の欲望をエネルギーとして、又その欲望を内面に問うため
に「墨東綺譚」という虚構が必要だったとする。
私には荷風の意識に、内側からその訳と場所を知らせずやってくる、まるで欲望としか思えないそれの有様に興味がある。「問い詰め
られても答えたくない」のは自分が自分に対してである。「精神」の問題は正財桶谷秀昭には発生するが、食神荷風にはおこらない。
プラスのイメージ思考が終生つづく。
『食神 西東三鬼』 ・・・・・・・・・「秋の暮れ 大魚の骨を 海が引く」・・・・・・ 「水枕 ガバリと 寒い冬がある」の作者である。
『食神 塚本邦雄』のタナトス原理
著作「雪月花」は新古今の歌人良経が雪、定家は月、家隆が花に当てられて加工編集される。
塚本邦雄は良経が一番と云い、その心境を説く。
「春の花 秋の月には残りける 心のはては 雪の夕暮れ」
は、これ死後幻想歌の修辞美学であり、涙ぐむ・・・・・・・とあり
「恋ひ死なむ わが世の果てに似たるかな かひなく迷ふ 夕暮の雲」
の釈には、一種恍惚感酩酊に近い感情が漂うと解し、自己の死と重ねてゆくのだ・・・・・・・・・と。
副題を「絶唱交響」とするこの本は 35年前の出版である。「良経の心境を想ってまだまだと生きる」と最近の新聞コラムにある。
『食神 ストラヴィンスキー』ー音塊原始主義ー 『食神手塚治虫』の「火の鳥」を発想させた、生の肯定「春の祭典」が連想される。
空んじた歌が反復され、その都度「感興」楽しく感じられ、自他に承認され身体大きくする。生命体の意識には「死」という外界世界も
感興してゆく対象となる。連想の想像力が「死の恐怖」イメージ方向を凌駕する。これがタナトス原理の正体とみる。
原理は一つ外側放出の「生命力原理」である。主客の関係( 気の配置) がそうさせるのである。
『食神 天本英世(俳優)』は生前に、アンダルシヤの地に自分の灰を播くことを偏執として語っていた。詩人ロルカ( 印綬)の死を熱く
語り、スペイン南部の外光のなか、清濁合わせてあれもこれも「感興」して、これらを賞賛する映像は別人であった。腹の底丸見えで歓
喜する身体は私をも感応させた。
『食神 高橋和巳』の文章にも、先の桶谷秀昭はタナトス原理を見る。
小説「散華」のなか敗戦で自刃する老農本右翼の人物を描き、最後の日記でその心境を「海あおし」のつぶやき繰り返しで表現する。
この「死の情熱」を作者は自覚している、作者自身のものだと言う。
「晴天、海あおし」
「今日もまた晴天、海あおし」
「今日もまた晴天、海あおし」
「晴、海蒼し、風吹く」
「晴、海蒼し」
「ああ、海よ」
「海」
であり、繰り返しは波のそれ、そこから海、空へと、身体は地球大に拡大する。
桶谷秀昭は精神の同伴者、村上一郎( 偏官) の自刃をここに重ねている。しかし偏官の死はまた違う。偏官の項でこれを示す。
『食神 赤瀬川原平』の「老人力」が以上ここまでのことを、違った文脈で云っている。
「死という大問題をすこしずつ小問題にしてゆく力」で、多くの利点は本項初めのポジシブ思考にあると。担がれて旗振った観ありで、
「おいしいおいしい、あーおいしいと言って料理をたべる人」と聞いた事もある。自他共感して分析する「老人力」は、若い頃からの本人
の無自覚の利点である。「わびさび」の美意識にも感興してアートする身体は、題材化さえすれば時間の地平に身体拡大して、死は大
問題小問題そして反転するのであろう。
『食神 リルケ』 ・・・「肉体的快楽を味わうことは悪いことではなく、わるいのは人がその経験を誤用し濫用するからです」
「それさえ気をつければ肉体的快楽は人間知であり世界知なのです」
内なるリルケの弟子 『食神 立原道造』 25歳死去 2年前の作 「夕映のなかに」・・・・・・・・・・
「私はいまは夕映の中に立って あたらしい希望だけを持って おまえのまはりをめぐってゐる 不思議な とほい人生よ おまえの
だがしかしそれはやがて近く 私らのうへに花咲くだろう と 私はいまは身をふるはせて あちらの あちらの方を見ている
しづかだった それゆゑ力なかった 昨日の そして今日の 私の一日よ 心にもなく化粧する夕映に飾られて
夜が火花を身のまわりに散らすとき 私は夢をわすれるだろう しかし 夢は私を抱くだろう」
「隠遁者ギー」の命名感覚で述べた食神の風化しやすい、時代の語彙感覚がじゃまをする。漢詩の意訳として読み、本文があると仮想
すると死への憧憬はみえてくる。
ポジシブ・シンキングの肯定的思考と積極的思考の分岐点、食神性情「事の大小を問わず」という微妙な域が、食神のより良く生きる
という「生き方」の問題として重要な問題点となる。これこそ思想哲学の問題領域である。
それを大乗仏教「空」の思想で云う。肯定思考、生命体モデル、正の実存主義、そして大乗仏教が同根のものである事を云って、
食神での哲学的な仮説を締めくくる。
『食神 上山春平』の「空の論理〈中観〉」は言う。
「カント( 正官)の懐疑的方法ー確実性を知的論争の誤解されている点の発見に努め、あたかも賢明な立法者のように当面の争われて
いる問題に関して裁判官たちの陥る当惑を参考とし、法律にふくまれている欠陥と、まだ規定されていない点を明らかにすること」「争い
の対象が幻影にすぎないのではない事を研究する点にある」以上の事を抜きにしては「神と自由と不死を私の理性に必然的な実践的
理性使用の為に想定することさえできない」「信仰を容れる場所を得る為に知識を除かねばならなかった」を引き「ソクラテスにおけるフィ
ロソフィアの原始の姿( 真から善への転換 )は長い錯乱の歴史を経たのちに、カントの批判において煩瑣な理論の衣装をまとつて再現
され、ブッダの教えの原型は部派仏教の時代におけるさまざまな変形と歪曲を経たのちに、龍樹の空観においてカントに劣らぬ難解な
表現を通して再現された。カントの批判はソクラテスの無知の再構成であり、龍樹の空観はブッダの無記の理論的再現であった」 と。
「世界に始まりが在るとするとその前はどうなるのか」「始まりが無いとしてもその前はどうなのか」「世界に際限が在るとするとその先
はどうなるのか」「世界に際限が無いとしてもその先はどうなのか」に集約する、思考定点の移動を「無限」に繰り返す他にない我々の
限界世界と意識。この限界を見定めてより良く生きること。邪念を切ること仮説の「空」を想う事。ここから運動としての大乗仏教は菩薩
道を志す仏塔墓守集団の、陣取り折伏合戦を経て完成されてゆく。般若教団は「空」、阿弥陀教団は「極楽念仏他力」、法華教団は「
一乗永遠性と多宝塔イメージ」、華厳教団は「空間無限の十万遍満仏」で、これら全てがイメージ思考に拠るものである。イメージ思考
はコラージュを繰り返し官能伝播し見える絶対性、仏像創作に至る。大乗の仏教美術とは先の食神のタナトス原理の人類史版なので
ある。「中観」は整理の言語を相手に本格論証の形を取った、「空」を擁護しそのメタレベルから分析思考アビダルマを批判した思想の
書であり、大乗経の原型とされる「般若経」の「空」はまさしく、白地のキャンバス体と成っている。充実の「空」である。
ここが整理の思考とイメージの思考の境界面となる。
「法華経というお経がさっぱり判らない。どこを読んでもこのお経はスゴイと自画自賛しているだけで、わたしは日蓮宗のアノお題目が
何か元気が出るぞと云う事で納得しているー( 正官)司馬遼太郎」
思想の書ではなく、社会運動宣伝の書なのである。運動を担う仏塔墓守集団の説は、「仏教の言説戦略ー( 劫財) 橋爪大三郎」中の
平川彰説に拠るもので、法華経のクライマックス「地の底から湧き上がる多宝塔イメージ」で大いに合点する。
時間の永遠性、空間の無限性、霊魂死後の問題の言説は人生に益せず妨げになる。考えるべきは貪り執着する欲望と苦しみの関係
性である。このブツダの「無記と縁起の説」の主旨を、 600年後に空相という感覚感情身体のゼロ地点を唱えることで一般化したのであ
る。「照見五薀皆空」物質、感覚、表象、欲望、知識は皆空である。「シンムケイゲ ムケゲコ ムウクフ オンリイッサイテンドウムソウ」
心にこだわりなく、こだわりが無いから恐怖なく、一切のサカサマな夢想からは、遠くはなれて。
「一度空と断じ、思い、切ってしまう事が要点」と云う意見に同意する。空を夢想してはいけない。イメージ思考のいい処を貰っている。
知が大量に集積され、それらが権力となって人間の生を苦しくさせる時、真のイメージ思考は現れる。
「窮した時には問題未解決のままプラスを狙わず、ゼロ地点に感情を引き揚げよ」、肯定的思考の要点である。
プラスを狙うと「努力逆転の法則」のドツボに陥る事が、経験からよく判る。
『食神 蓮如』の門徒衆は遠く「極楽念仏他力」阿弥陀教団を源流とする。そして一向一揆はナムアミダブツで死んでゆく。
岳宏一郎著「蓮如夏の嵐」には蓮如の生日が載っている。ここには私の想う食神が書かれている。
「煩悩を極楽イメージと天真爛漫と思考停止で乗り切る」「教団内階級性」「貴族化」「権威」「教訓」「陽気」「血統尊王」「保守」「自慢」「
体裁屋」「吉崎をすてる」「悪人正機」「摂取不捨」「力の我欲」「焼け太り」「人の運を吸い取る力」「好意的デマ」「功利的」「この人の為
ならと思わせる」「悪人正機論の拡大」権力が周囲に依って形成され、それに乗って膨張する欲望体の先端に食神がいる。
「痛んだり嘆いたりの大量のオフミと呼ばれる私信書」「この御文で教団別枠で人を動かし画策する」「権威への敬意」「女人往生」「宿
善という矛盾」「講の中の安心感」「念仏を有り難い祈念とす」「名号の連発」「短気」「救済請求と感謝に使い分け」「四人の妻と二十七
人の子沢山」・・・・・・・・・・・・以上が本書からの切り抜きである。
熟慮ない一般言説と感情操作、イメージ思考の最先端に「シンボルー生き仏」となって乗り込んだ、「私の想う食神」の姿がある。
『食神 トルストイ』 ロシヤの文豪も十三人の子沢山である。
「社会の教師、われわれの教師で、われわれは教え子にすぎない。だがいったい何を教えるのか( 偏印ドスト・エフスキー)」
食神言説の一般性と、それが生み出した権威を皮肉で言っているのだが、相性の問題がある。偏印との最悪の相性を次項で云う。
「美的にははなはだ強く、道徳的にはかなり強く、知性的には皆無である ( 正財ロマン・ローラン) 」
文通の学生から勧められた「地位を捨て財産を分与し、ぜいたくな生活から離れること」を想いながら、 82歳で行き先のない家出をして
死す。侍医と女性秘書を従えて。
『食神 吉田松陰』もあの肖像画からの一般的イメージ像の方が勝っている。本人楽天で、鍵の開いた牢屋で講義などしている。女囚
のアトラクションもあったと言う。松下村熟は軍事諜報機関で、自説をアジテートするため孔孟をとりあげこれを批判する。投獄の原因も
ペリーに渡米を願い出たためであるし、斬首も口車に乗って多くを喋りすぎた為である。我田に水引く余地大いに有りと見る。
・・・・・「吾れ今國の為に死す、死して君親に背かず。悠々たり天地の事、鑑照、神明に在り」
一方の勇 『食神 井伊直弼』も担ぎ出され、御神輿に乗って出たのであるー「世の中をよそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心
なき身は」「わたつ海の底にはふちも瀬もなくて 水のみなかみ常にたえせず」
『食神 新井白石』の改革は「変革はおこなわれず、逆に旧体制文治主義政治の頂点となつた」とある。
『食神 小泉純一郎 塩川正十郎 竹中平蔵 中谷元』 『食神 橋本龍太郎 橋本大二郎』
自民党大事の時期、夏休み明けで真っ黒に日焼けした橋本首相、背広の似合わない遊びの色であった。新幹線からカメラ狙って風景
を激写、破顔の首相をおもいだす。激写『食神 篠山紀信 』は撮影後の、旨い物を食って帰れる道順に思案する。
『食神 二宮尊徳』の主張は苦学でも倹約でもない。それに拠る「報酬」なのである。
『食神 小田実』のベ平連代表の要請を電話で受けての驚くべき迅速性と運動体の膨張( 正財 鶴見俊輔談)、初めてテレビで見るそ
の喋り方へのコチラ側の驚き。『食神 山下達郎』の喋りにもそれがある。
『食神 麿赤児』前衛舞踏の裸が 30年前のたくっていた。欲望する原生動物のように。
『食神 ミレー』の農民画は、輝いていた社会主義思想「草花の匂いのする機関車だ( レーニンへの詩)食神芥川龍之介」と同じく、
題材はモダンの感覚で選定さられたものである。『食神 堤清二』の共産党入党も、知的モダンの感覚である。
『食神 ランボー』ー「地獄の季節」「イリュミナシオン」ー17歳でパリ・コミューンに共鳴、( 偏官)ヴェルレーヌと同棲、2年後の発砲事
件まで伴だっての放浪生活、自分を「見者」と自己規定。
「もお秋か それにしてもなぜ永遠の太陽を惜しむのか われわれはあの崇高な光の発見に 身を志す者ではないのか」
21歳で貿易商となり37歳マルセイユで癌により死去。
「・・・また見えた 永遠が・・・」 誰も見ることが出来ない「未知」を、全感覚の錯乱で透視する。
『食神 蒲原有明』ー「 薄ぐもる夏の日なかは 愛欲の念にうるみ 底もゆるをみなの眼ざし むかひゐてこころぞ悩む・・・・
・・・何事の起るともなく 何ものかひそめるけはひ 眼のあたり融けてこそゆけ 夏の雲 ー 空は汗ばむ 」
ー 我国最初の象徴詩集 「有明集」 ー 「自然の精髄を捉えて、対象の自然を情緒的に神経的に変形させる事」
『食神 鈴木大拙』を語る女性秘書さん、ラジオでの話「何かこちらが先生のお世話をしてあげたい、その方が嬉しいんですよ」
『食神 堤清二』ー父を(食神)堤慶次郎、異母弟を(偏官)堤義明とする西武セゾングループ会長ー「出来上がったホテルを見に行くと
、必ず最初の計画よりも金のかかった、立派なものが出来ていた・・」 後始末に私財100億円を投じて、「自己批判的消費社会批判」を
作家 辻井喬(ペンネーム)が展開する。「不思議大好き」「おいしい生活」(劫財)糸井重里の、バブルの時代は何であったのか・・・と。
『食神 森信三』ー「円心あって円周なし」「全一学」ー 「実践人の家」創開者、西田哲学門下で主知哲学を避け「いのちの全一性を
自証する立場」で、全国行脚する実践教育学者。 「即今着手 一気呵成 拙速主義、真理は感動を通してのみ授受せられる」
「私たちが生きているこの世の中には、過去、現在、未来へとつらなる目に見えない波動で満ち満ちています」
『食神 東郷平八郎』の連合艦隊総帥着任の理由を、明治帝に山本権兵衛( 比肩)が申し上げる「東郷は若い頃から運のついた男
ですから」。こういう眼力ある日本人が居たのである(
正官司馬遼太郎「坂の上の雲」より)。
食神は一にも二にも、その下で支えるもの、適材適所の「御神輿」の技量に拠るのである。
『食神 嵐寛寿郎 長谷川一夫 松方弘樹 北大路欣也 加藤剛 栗塚旭 風間杜夫』の二枚目の系列
「鏡の中で顔をつくり、頭揺らさず平行に移動、カメラ前に立つ松方さん」これも昔の、北野たけしの話。
食神の項はこれにて終わる。
「僕の精神には一筋の白髪も無いし 年寄りくさいやさしさも無い 世界を声の力で打ち砕き 僕は進む 美男子で 22歳」
『食神 大江健三郎』

