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今夜の番組チェック

  き  ねん  ひ  てき  ほう  ほう
 
(白部は主体を示す)
 主 客 標 示
標語 「保守蓄財」「篤実穏健」「家庭常道」「正妻不動産」
     イロニー
      記念碑的方法


正財
せい  ざい
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13

  正財人名リスト

ノヴァリス    ウィリアム・ブレイク    デカルト   クローチェ  スウィフト   ベルイマン   シモーヌ・ヴェイユ   プルースト

ノーマン・メイラー    プルードン    フォークナー    カール・ウエーバー    ヘンデル    ジェイムス・ハリントン    ペスタロツチ

コンディヤック   ヴィーラント  ラ・ロシュフコウ  ルイ 16世  コルベール  カール・フォン・サヴィユー フリードリヒ・シユレーゲル

グリム弟
   トインビー  ダリ  イエーリング    ヴィーラント    ロマン・ローラン    テンニース     ヒルテイ     ハバーマス

ベルリオーズ  ジャン・ジャネ  ジエラード・ネルヴァル  プルードン  ジォジ・サンド  ジョン・スタインベック  ブラック  ピサロ

エルンスト・ハインケン    シューレーゲル兄    ウィリアム・ハミルトン    エズラ・ヴォーゲル    ベルナノス    イプセン

マッカーサー   ウイリアム・モリス   ドラクロア   パティ・スミス  マルティナ・ヒンギス  ピエール・ボナール  ペスタロッツイ

オーギュスト・ロダン   ヒル・ファーディング   エミール・デュルケム   ヴァージニア・ウルフ   デヴィット゛・グリフィス  マツタ

ギヨーム・アポリネール   アラビヤのロレンス   マルセル・ディシャン   アレクサンドラ・コロンタイ   ドブロイ  イブ・タンギー

マルセル・モース    張作林    ミハイル・ショーロホフ   エラリー・クィーン弟   マーガレット・ミッチェル   W H・オーディン

アーサー・ケストラー   ヴァネヴァー・ヴッシュ  キャロル・リード  ウォルター・クロンカント  カルティ・エブレッソン  ユン・チヤン

チエーザレ・パヴェーゼ   ジャン・コクトー   ティヤールド・シャルダン   ロッキー・マルシアーノ  アレン・ギンズバーグ  姜文

ミロ・ヴァンジラス   ピート・シーガー   マルグリット・デュラス  ジヤック・モノー  クレメント・グリーンバーグ  トマス・ピンチョン

ユルゲン・ハバーマス   W ・シンボルスカ   アナン事務総長    ロンサール    ラ・ロシュフコー    ジャクリーヌ・オナシス

ボブ・サップ   プリーモ・レーヴィ   セヴィニェ夫人  カウント・ベイシー  カラヤン  ガンジー  エドガー・ケーシー  スターリン

サダム・フセイン   フーバー長官   ファン・バンドン  ロベスピエール  ベギン首相  慮泰愚  イーデス・ハンソン  ユリゲラ

ジュリアーノ・ジエンマ    アラン・ラッド   パット・ブーン   チャールトン・ヘストン    ピーター・ホンダ    ゲリー・クーパー

シャリー・マクレーン  ロバート・ライアン  ロバート・ショー  ジェン・マンスフィルド  エバレット・マーシャル  オスカー・ウェルナー

ウィレム・デフォー   ジェフ・ダニエルズ  ジエームス・スペイダー  ジヨニー・デップ  ジヨージ・ケネディー  スティーブ・マーチン

ジャン・マリヤ・ボロンテ   ジョン・ハート   デンゼル・ワシントン  ダドリー・ムーア  フレッド・マクマレイ  ピアース・ブロスナン

ピーター・ウェラー   ドン・ジョンソン    レイモンド・バー    ラウル・ジュリアー    ロイ・シュナイダー   ルーカス・ハース 

 マイケル・フォツクス   ヘルムート・バーガー   トム・クルーズ   ジュディー・ホスター  ジュリア・ロバーツ  ジェシカ・ラング

ジーン・シモンズ    レナード・ニモイ    ベテイ・デイビス    デボラ・カー   デブラ・ウインガー   チューズデイ・ウエルド 

モーリン・オサリバン    ミレーユ・ダルク    マリー・ラフォレ   ボニー・ベデリア   エカテリーナ二世   金正男   朱鎔基

柳田国男   本居宣長   空海  西田幾太郎  木戸孝允   山崎闇斎  山県有朋  明恵  土方歳三   萩原朔太郎  正岡子規

保田与重郎   吉川英治   原田大六  与謝野晶子  向坂逸郎  八木一夫  佐藤一斎  見城徹  山本一力  源氏鶏太

浩宮徳仁   北の湖   村主章枝   久保純子   賀川豊彦   石原莞爾   麻生太郎   伊藤整  横山隆一  磯部浅一

高田屋嘉兵   有島武郎   島木赤彼彦   双葉山   比嘉鉄也   斎藤精一郎   三島由紀夫  神谷美恵子  阿部正弘

桂春団治   北原怜子   徳田球一   新田次郎   広田弘毅  隆慶一郎  山崎哲  樋口広太郎   明石康  小里貞利

久和ひとみ   樋口恵子   堀尾正明   片山右京   馬虎初   大友克洋  桐山靖雄  君島一郎  しりあがり寿  三瓶

江崎勝久   鈴木都知事   宇野宗祐   中西啓介   森山真弓  村山富一  森喜郎  横山泰三  浅野八郎  谷内六郎

石川達三   天沢退二郎    鶴見俊輔    河合隼雄   滝口修造   貝塚茂樹  小林久三  北山修  北壮夫  阿久悠

上野昂志   吉田喜重   加田こうじ   加藤郁乎   福永光司   今村昌平   堀紘一  花登筺  藤田敏八  今野雄二

田村隆一  植草甚一  呉智英  山本健吉  三枝成章  天野祐吉  伊集院静  西部邁  袴田茂樹  小川和久  泉大八

山崎哲   森村誠一   李恢成   吉本ばなな  立木義浩  ちばてつや  若山弦蔵  桶谷秀昭  淀川長治  虫明亜呂無

なかにし礼   佐賀潜   三田誠広  中沢新一  赤木圭一郎  桂みきすけ  松平定知  石破茂  小池ユリ子  小宮悦子

土井正三   渡辺真理   久和ひとみ   山口誓子   森繁久弥   渡瀬道彦   大岡玲  熊倉一雄  大地康雄  桂文珍

萩本欽一   西条凡児  米倉斎加年  横山エンタツ  中村喜四郎  橋本忍  岸田智史  十朱久雄  狩人・弟  平幹二郎

秋野太作  川地民夫  佐分利信  吉田栄作  広岡瞬  高橋貞二  西郷輝彦  藤竜也  今田耕二  堂本光一  谷隼人

月形龍之助  鶴田浩二  河原崎長一郎   加勢大周   風見慎吾  サンプラザ・中野  森進一  もんたよしのり  渥美二郎

山田パンダ  柳ジョージ  佐藤蛾次郎  ベンガル  金田賢一  関口宏  渡辺徹  井上陽水  坂田明  井上順 石野真子

安部慎一  清水ミチコ  川崎ゆきお  滝田ゆう  池上遼一  高信太郎  ちばてつや  黒鉄ヒロシ  ジョージ秋山  宅八郎

淀川さんぽ  島田伸助  ヒロミ  岩城コウイチ  世良公則  矢沢永吉  長渕剛  伊藤四郎  宮尾進  松村和子  小林薫

レッツゴー三匹・じゅん 長作    坂井真紀   大谷うたえもん  五月みどり  千堂あきほ  萬田久子  飯田蝶子  樹木希林

石井好子   大竹しのぶ   吉永小百合  鈴木保奈美   木の葉のこ  水野久美  江利チエミ  アン・ルイス  西田ひかる

ジュディー・オング  鳥丸せつ子  前田ビバリ  真野響子  TOKIO松岡  上祐史造  内山信二  マギー司郎  竹内まりや

雨上り・宮迫   菊川怜  千原兄弟・弟  レオナルド熊  やるせなす石井  アンタッチャブル・ゴリ 柴田  杉山愛  石塚英彦

もたいまさこ   奥山佳恵   斎藤洋介  山本太郎  夢路いとし 渡辺篤郎  佐藤藍子  杉本彩  近松麗江  猿岩石・森脇

野々村真   大滝詠一  三浦浩一  モト冬樹  鶴田真由  島森路子  小倉久寛  テイクツー・深沢  池乃めだか  西田健

嶋田久作  黒木瞳  伊集院光  江崎高志  城島茂  植草克秀  河原崎健三 河原崎次郎  清水紘治 高山厳 向井亜紀

沢田雅美  三條美紀  白木万里  瀬川瑛子  平沙織  高橋由美子  中村あずさ  日色ともえ  太平サブロー  高津臣吾

サマーズ・三村マサカズ  パフィー・亜美  宮藤官九郎  石井琢朗  岩瀬仁紀  中村武志  斎藤雅樹  伊藤智仁  角三男

田畑一也   土橋勝征   馬場敏史   八木裕  坪井智哉  潮崎哲也  仰木監督  井口忠仁  近鉄・マットソン  初芝清

斎藤宣之   安藤優也  荒木大輔  門田博光  小錦  鬼塚勝也   千代の富士  平尾誠二  貴花田  杉下茂  愛甲猛

川上哲治   阪神・ムーア   結城哀草果   大野誠夫   加藤克巳   長谷川双魚   秋元不死男   葛原妙子  森澄雄

野澤節子   安西冬衛   鷹巣繁男   中桐雅夫    渋沢孝輔    土橋治重    北園克衛    小磯良平    関川夏央

大久保嘉人   枝野幸男   MEGUMI  加藤あい  金井勝   野沢尚 大山加奈  藤井治芳  アンタッチャブル・柴田

キリン・川島  飛石連休・石見  ニブンノゴ・宮地  ハリガネロック・大上 バカリズム・松下 バナナマン・日村


西山秀二  白真勳  河井寛次郎  たま・知久寿焼  孫正義  川淵三郎 井上康生 塚田真希




  正財考察  

正財の標語は「保守蓄財」「篤実穏健」「家庭常道」「正妻不動産」である。

私の身辺での判りやすい言い方は「家庭重視の常識家で、赤エンピツ一本の場所も知っている」「生活基盤、リアルな財、着実な貯蓄

、そこからの生活の知恵、伝統を尊ぶ」である。また身辺の男性正財人物全て同意の「妾を持つ事を男の甲斐性と考える」がある。

本生日の気の配置を云う。

生日自我が外側世界を「制圧」し、その陰陽差は「異極」である。左上図に「主客配置」を示す。

白部自我が、漆黒外側世界を制圧する図である。主客の陰陽異極は、前項の傷官と同じく整理言語身体に拠る、理念原理を志向し

ての論理思考によって世界と関係する。

気の力の関係には生成と制圧の二通りあり、正財は「制圧する」である。この項までに同一のものに偏財がある。

この「制圧する」と云う関係は、図では「客体は主体と混じらない」の意を込めて漆黒の矩形の外界世界とする。

明瞭な境界域は生成に比して、自我にとっては明瞭な場面意識「いまここ」の「現実リアリズム」を生み出すこととなる。反面では主客

全体の系統観を失う事が前項整理のなかで判明した。

この「自我が外界を整理言語身体に拠って制圧する」という有り様を、「自我が外界を整理言語に拠って規定する」と云い換える。

言葉による規定は、変化する外界を嫌い、静的不動の事象を優先させる。

また「主客の大きい方に神がいる」との仮説に拠り、偏財生日と同じく、信じるに足るものの在り場所は自我にあり実証精神を生むと

考える。「実証的」ポジティブの語意には「積極的」「肯定的」「陽性の」そして「自信の強い」があり、偏財の項フーコーでは成果があっ

た。本項もこれで押して行くが、「自信の強い」と「制圧する」の二つで「実証的」と考える。これもまた前項傷官整理の結果判明した。

偏財の芸術身体には実証性への意気込みは、概念同士が並列されるのみ、あるいはシンボルは客観で役立たない事で挫折する。

本項正財では自我は隔絶リアルの外界を、実証的に場面々において、客観形式で規定する。

        哲学思想の分野に主客の形を当ててみる。


 『正財 デカルト』は「暫定的道徳( 方法序説)」と称するものを以って、現実に相い渉る。「国の法律と習慣に随うこと」「最も分別ある

穏健な、極端から遠い意見に随って自分を導くこと」「一旦決心した以上は、それが確実なものであるかのように、変わらぬ態度でその

決心に随うこと」「役者であるよりも見物人であろうと努めること」 これがデカルトの全体社会に対する、自我の対処の方法である。

一方で学者としてのデカルトは、「意識の内容は疑わしい」そして「疑っている自我コギトだけは疑いえない」、そして「私の中に神の観

念があるが、その完全で無限の神の観念は、疑うという不完全な私には作りだせない」そして「だからその神の観念は本当の神から

来ている」そして「だから神は存在する」そして「神は人を欺かないから、私が明晰、判明に認識するとおり物体は存在する」という証明

が成り立つ、と云うことで物心二元論「近代合理主義の父」ということになっている。

成り行きは数学的思考で単純な「原理」を手に入れ、そこから外界に向けて整理の言語を組んで行ったのである。

その時代の最先端の知「自然を形と大きさと運動」に要素還元した「力学」を、もう一段抽象化して物体を形而上的言語「延長」と呼び、

それを根本原理として自然全体を説明しようとする。力学から哲学への要素還元である。

物体は延長だけを本性とする実体となり、これが「機械論的自然観」と呼ばれている。

以後の物質現象の数学的説明とその利用の正当性、「人間の合理精神」が樹立されたのである。

ライプニッツ( 傷官)の数学的真理から演繹する結合術、スピノザ( 正官)の幾何学的証明表記法等を併せて、感覚から始めるイギリス

経験論に対し、大陸合理論と呼ばれている。

イメージ思考での無際限ではなく「無限の観念( 理念)を持っている」と言う事は、そういう言葉を知っていると言う事では無く、「理念は

統合の際の指標として要請される( 正官カント)」から考えれば、その要請された無限の理念の下、統合される種々の原則が結節され

ていると云う事である。

「世間という大きな書物」によって修得された整理言語身体から、「単純明白」を意識する中に根本原理は知的直観で現出し、そこから

必然的演繹が思考される。

が、「自分の原理から帰結するあらゆる真理を導きだすには数世紀かかる」「命の短さと実験の不足」から、結節されるべき種々の原

則法則は後世に委ねられ、前段の「暫定的道徳」で本人は生きる。

「世間という大きな書物」という外界全体の中では、明白な根本原理は「あたりまえの常識」の中に眠っている「生活の公理」である。「

良識はこの世でもっとも公平に分配されているものである。正しく判断し、真を偽と区別する能力、それはまさしく良識または理性とよ

ばれているものである(方法序説)」良識は日本語でも道義的意味をも含む。

力学思考を自然原理の形而上学で補強し、先の「無限の神の証明」では「理念は中世神学以来神の思考内容とされている」という、「

一般常識」を取り込む事で我が論を補強すると言う、デカルトの「自我への確信」に見えてくる。ガリレイ( 印綬)の天体説明を過剰に普

遍形式化したのである。

云いたいことは最初の命題「疑っている自我コギトだけは疑いえない = 思考する自我コギトの絶対性」のみである。私の言葉に言い換

えれば「神ある自我は外界に勝ち、整理言語で規定する」と云う事になる。「無限の観念の生得性」もこれが言わせている。

以上は、気の配置からの「客体は主体と混じらない」「それが現実リアリズムと実証精神を生む」に合致する。

そして「しかし主客全体の系統観は失われる」が、世間および社会全般という複雑系には「数世紀かかる」から、一般性「常識」を指標

に生きる、にも合致する。

客体を整理言語で「制圧」するという事の過剰な形式化は、「物心二元論」という「今日の常識思考」に一般化し、輝いている。

が、その時デカルトの大事とする「自我の絶対信頼性」の方は無視される。物象化の始まりである。物象化とは形式化の中で「精神」

が物換算される事であるから、正財精神の「自我」に普遍性を見ずに、「実証された成果 = 物質法則」にのみに普遍絶対を見ることで

ある。この後のカント( 正官)によって形式化される「客観」という超越論的思考の立場も無視されて、「客観思考成果の絶対性」はカント

以後カントールまで百年間、ハイゼルベルグまで二百年間、過剰な科学信奉で総てを語る事が続くのである。

夜空を見上げれば無限の空間がソコに在る、のに無限は不可思議としてしか扱えない。デカルトの対象世界は長い時間に耐ええぬ事

を本人の「良識」が知っている。しかし強固に地上に貼り付けられた「観念」は、曲解されて永らえる。


 『正財 本居宣長』は「暫定的道徳」を以ってしての保守たる医師生活と、「私意」を排しての「実証精神」打ち込みの解釈学で、「大

和心」のモニュメントを築きあげる。

膨大明細な 72年間の日記と家計簿、そして一万首の歌を詠み、イメージ思考が乏しい為に残るは一首のみ、「敷島の大和心を人問

わば朝日に匂う山桜花」。

( 偏印)荻生徂徠の「古文辞学」と( 傷官)賀茂真淵の「古道国学」の精神を受け取っての漢文「古事記」を、すでに身体化された「源氏

物語」の言語で翻訳注釈したものが 38年かけての、「古事記伝」である。イメージ物語の中から日本上代の理念は出てこない。出てこ

ない事を信念を持って自説で通すのである。デカルトの「一旦決心した以上は、それが確実なものであるかのように、変わらぬ態度で

その決心に随うこと」であり、これはやるべき事をやった「実証する絶対自我」への信頼、そのことの普遍性への希求である。整理言語

「理念」は、そのまま正財の「人格」であり生き死にが係っている。

「実証する」とは、この時「押し通す」ことになっているが、思考停止にはいたらない。   なぜか・・・・・・演繹法で思考するから。

「もののあわれを知る心」は源氏物語から抜き出した理念であり、「あわれ」は情趣よりも家事万端の心得配慮という、整理言語身体を

含むのである。上代の理念は「古事記伝」の前に「源氏物語」に拠って宣長の意識に獲得済みなのである。

後世の宣長評は、古文辞学での合理精神そして「天皇は種である」と、「太陽は日本から生まれた」「大御国」「皇国の道」「清き大和

魂」「汚き漢心」「劣った異国」等々の狂信的国粋主義の落差を言う。

「儒なる者は聖人の道なり。聖人の道は国を為め天下わ治め、民わ安んずるの道なり。私有自楽する所以の者にあらず」「皇国の古へ

はさる言痛き教へも何もなかりしかど、下が下までみだるることなく、天ノ下は穏に治まりて、天津日嗣いや遠長に伝はり来坐り。され

ばかの異国の名にならひていはば、是ぞ上もなき優れたる大き道にして、実は道はあるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道

ありしなりけり」・・・そして「天はただ気のみにて形はなき物とする、これ又まことしげに聞こゆれ共ねもし然らば地外はみな気なるを、

その気は際限ありとやせん、なしとやせん。もし際限なくばいづれの処を辺とも、いづれの処を中とも定むべきにあらざるに、地球の止

まる処あるは心得ず。もし又際限ありとせば、その気も又弾丸の如くなるべければ、何れの処を処と定めて凝りあつまりたるとかせん」

・・・だから神代の事は書かれている事を素直に信じるべきだ。となるのだが、これはイロニー反語の方法を自ら云っている。

外側世界の最大遠点「無限」に整理言語身体は届いている。絶対自我への確信もある。しかし途中の系統が抜けている。

途中の系統、全体化には数世紀かかる。


『正財 桶谷秀昭』ー「昭和精神史」の中でロマン主義者『正財 保田与十郎』の言霊とイロニーを云う箇所で、宣長の「神のことは人

智のさかしらで測るのではなく、書かれたままを受けとれ」に対して、国学者富士谷御杖が「倒語」を使えと言ったと紹介する。

倒語とは思うところをそのまま言挙げせず、表現を変えることで禍を避け言霊を発揮するとするレトリックで、保田与十郎のイロニーはこ

れだと説明する。私はこれを正財の思考形式「演繹」の方法に因が在るとする。

桶谷秀昭の著書には節目々で記憶に残る形での、「精神」との出会いがあった。短い文章で知りたい事が、人物の実存を外さずに書

かれてあった。文学史という一般性の中に最小限度の実存が、人物を悼む形で貼り付けられていた。本表題の「記念碑的方法」は、

著者の「昭和精神史 戦後偏」と「浪漫的滑走」の中で保田与十郎と( 正財)西田幾太郎、( 劫財)竹内好が共有していたとする文化

構想「モニュメンタアル」を、そのまま借りている。

「モニュメンタアル」とは戦前期において近代日本文化を否定し、それを否定する自己を否定するという、トータルな近代否定と表裏一

体となっている処の、「存在するあらゆるものにその場所をあたえ、その上に塔を築くという考え方」であると書かれている。

私が受け取った桶谷秀昭の著書の「精神」こそは、「あるべき場所をあたえられ、その上に最小の塔を築かれる」方法に拠って書かれ

ていたものであった。正財の「精神」がここで共鳴していた。

「日本の新しい精神の混沌と未形の状態や、破壊と建設を同時的に確保した自由な日本のイロニー( 皮肉)、さらに進んではイロニー

としての日本といったものへのリアリズムが、日本浪漫派の地盤となった」と言う保田の言語身体「精神」の幅は、昭和十年代から文

明開化そして古代国家創成の土地、山川草木と一体不離の本物であった、と説かれている。また同章では保田が家庭をダンスホー

ルにして妻出奔したロマン派『正財 萩原朔太郎』に最大の賛辞を捧げた事をも引いている。「月に吠える」での恐怖と戦慄の日本の

自然は、「郷土望景詩」では漢詩の風景となり、「氷山」では荒寥たる風景となって思考言語を混在させるー「いかなれば虚無の時空

に 新しき弁証の回帰を待たんや・・・・見よ!人生は過失なり 」演繹すべき「理念」が壊れたことを云っているのだが、保田は云う「本

来の意味に於いての詩人として現代に残された彼は、現代のイロニーを代表することさへこのときに強いられている。イロニーが我々

の意味で、一切偉大なものの故郷であるとき、それは現代に於ける唯一の新詩人萩原朔太郎が表象する」・・・と。

また桶谷の地の文「この頃マルクス主義運動の崩壊後に、言論界に登場したヒュウマニズムといふ人間の限界倫理の範疇に根ざさ

ない思考の発想法・・云々」が私には引っ掛かる。

「浪漫的滑走」には保田のイロニーの方法が、「慣習的限定された概念の力を無効にすることで、ある漠とした無限の感覚を示唆する

手段」「近代社会の矛盾を客観性喪失の詩的詠歎によって溶解しつつ、同時に客観性が社会連関という真実にねざすことを開示する」

ものであり、その動機の奥にあるものは「絶対」を希求する、喪失と迎望の同時に極限化された感情である、とされている。そしてこの

心根は最後に「死の美学」に座をゆずる、と。「戦後偏」では『正財 三島由紀夫』が、異様な美しい文章「・・・・記憶もなければ何もな

いところへ自分はきてしまった・・・・・・庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる( 天人五衰)」と供に、モニュメントされている。

イロニーの原意は「隠すこと」である。

   ドイツロマン主義は「理念と現実の不一致」にイロニーの「隠すこと」でメシアリズムを表現したー( 印綬)ベンヤミン

「ロマン派の多くはカトリック系であり、これが客観普遍性を重視して、中世を神秘化する要因となっている」

「主観自我を絶対根拠として、日常現象、世間を嘲笑する態度」「ゾルガーの主張する弁証法的イロニー( 主観自我を肯定後、自ら絶対

自我、神に向かって解消してゆくー自嘲的にみずからに戯れながら、半ば神の光に酔いながら)がある」・・・・以上は解説書より。

まとめての私見は以下のごとくである。

「イロニーとは、内側に信在りとし理性を人格とする現実 リアリストが、わが理念を護り、自我を救うために採る心的態度である」

理念からの演繹過程は必然性に拠っておこなわれるが、下位現実レベルで付き合せての帰納に違和が生じているだけである。

途中の系統が抜けている正財の弱点である。これがイロニーの正体とみる。

宣長の場合も( 比肩)上田秋成との「太陽は日本から生まれた」論争で、ニーチエと同じく メタフアーだと云えば済む。

正財ロマン主義者の最たる「理念( そこから外界すべてを演繹出来るもの)」とは何か。「高貴で、英雄的で、一回的で、崇高な、美」な

のだろうか。美は「心的」なものである。隠された理念は「不動性の原理に貫かれた、諸々の生活理念」である。

ロマン主義者は不適な激動状況を迎えて、途中の系統が抜けた物言いで「心的態度」感覚感情を示す。それがイロニーである。

『正財 伊藤整』の戦時に対して「現実問題としては、その社会で一般的に認められている道徳的なもので、反論理的なものでなけれ

ば、それに順応していく・・( 座談会 近代の超克)」という態度にイロニーは無い。

私には引っ掛かる桶谷秀昭の「ヒュウマニズムといふ人間の限界倫理の範疇に根ざさない思考」を説明する。正財の「自我が外側世

界に勝つ」という気の関係は、前項傷官と同じく外からの「善悪の倫理」を嫌い「自由の理念」を挙げる事となる。気の関係が逆の場合

は「平等の理念」が信を得る。ここまでのタイプでは、偏印がこれに当たる。正財の「妾を持つ事を男の甲斐性と考える」もこれであるし

、宣長の「私有自楽」もこれである。正財の価値とする処の、自由の範囲は平等の範囲より広いのである。

デカルトでは「暫定的道徳」、宣長の「実は道はあるが故に道てふ言なく」は、諸々の生活を成り立たせている不動性、変わらない原

理を云っている事にもなる。「当たり前のこと」はそれが壊れた時に理念理想として、現実に相対させた言葉で言挙げされる。正財の理

念はもともと隠れてしまう宿命を持っている。理想としてのイメージの輝きが無いもの、だからである。


 『正財 ロマン・ロラン』はパリコンミユーン後のペシミズムの時代に生きた。

こちらは正真のヒューマニズムの雄である、が倫理は殆ど云ってはいない。ロランの自我の自覚はこうである。

「個人的自我は絶対的自我に至る過渡的なものである」「過渡的役割は熱烈に生き、他方で個別的存在を神へと解消させる」「この個

別者の神への移行をイロニーと呼ぶ」「イロニーの微笑が幸福を変容させ、苦痛に光を与える」、また言う「イロニーはエリートの遊戯で

ある。戦闘においてはイロニーほと゜軽妙でない武器が必要である。われわれには重砲がかけていた」 

トルストイと同じくヒューマニズムの底の浅さは、客観思考に拠っている。

創作の源泉は隣国ドイツの百年前の英雄、( 比肩)ベートーヴェンの音楽と( 比肩)シラーの「すべての人が兄弟となる、抱き合え、百

千万の人々よ( 第九交響楽)」の高揚感である。

「創造的な偉大な魂は、燃え上がる。数々の直観の間を論理的な絆で結ぶようなことに、けっして心を奪われはしまい・・ベートーヴェ

ンは神に満たされている、いっさいを超えてある神に」、りつばなロマン主義者である。

ロマン主義では「モニュメンタルの方法」の度が過ぎる。正財の篤実、正直で親切であることが表現の中で消えている。

ロマン派を列べてみる。


 『正財 与謝野晶子』ー「劫初より 作りいとなむ殿堂に われも黄金の釘 一つ打つ」はモニュメンタルのこと、これを見つけて私に

は確信がやってきた。「柔肌の 熱き血潮に触れもせで 寂しからずや 道を説く君」は自我の絶対性を云っている。

最良の相性( 正官)与謝野鉄幹を挟んだ三角関係の、激する経験は屈折なく「女性の権利」に一般化される。


 『正財 ノヴァリス』の整理言語身体は鉱山学の知で形成されている。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルを借りた魔術的観念論。

婚約後肝臓病で早世した 13歳の少女の霊を見、彼岸での一体化、死への憧憬、地上的呪縛に対する痛恨が、「夜の讃歌」「青い花」

を生み、 29歳で死去。宗教改革、合理主義、フランス革命に否定的。「人類はわれらの遊星、地球にとっての高次の感覚器官である」

「人類は地球を上なる世界と結びつける神経であり、上天を見上げる地球の眼である」 「人は神を人間の中に求めねばならぬ」


 『正財 シュレーゲル兄』ー言語学者で「雑誌アテネーウム」を創刊、その後の 10年ドイツ初期ロマン主義の時代を牽引す。


 『正財 グリム弟』ードイツ自前の民族の歴史的精神、「民話」を採取する。我国の民族学者『正財 柳田国男』の「一つ目小僧」と

同じく、拾った内容はリアルで暗い。国民国家、民族の為だが、宣長同様それしか無いのである。しかし言う「炉端や釜戸のそば、屋

根裏へ通ずる階段の途中、昔ながらの祝いごとの日、家畜を追う道、静かな森の道、そしてとりわけ曇りのない空想の力、それらがこ

の童話を守り伝えた土壌なのだ」


 『正財 ドラクロワ』ー半裸のリアリズムで自由の女神が旗をふる「民衆を率いる自由の女神」ー七月革命を描くこの絵には違和感が

何時までも続く。度が過ぎていて理念は伝わらない。確かに違和での印象は強力である。


 『正財 ベルリオーズ』ー七月革命に初演した「幻想交響曲」ーフランス・ロマン主義音楽の代表、源泉は女優への恋情である。この

恋情を何度も繰り返す旋律( 固定楽想)で、文学的意図を表現するー標題音楽史上画期的作品 副題「芸術家の生涯のエビソード」


 『正財 ロンサール』ー16世紀仏ロマン主義の先駆者ー「恋愛詩集」ー源泉は14歳の銀行家の娘への恋情。


 『正財 ジェラード・ネルヴァル』ー末期仏ロマン主義者ー女優への恋情のため私財蕩尽、古代の神話秘儀秘教に迷い、無意識的

記憶の連鎖法で『正財 フ゜ルースト』の失われた時を求めての先駆をゆく、晩年の作「私はまことに甘美な夢から覚めた。それは、か

って私が愛した女性が姿を変え光り輝いているのに再会する夢であった。空は一面栄光につつまれ、私はキリストの血で書かれた赦

免の字を読み取る。その時一つの星が空に瞬き、この世とさまざまな世界の秘密を、私に洩らしてくれるのであった( オーレリア)」


 『正財 ウィリアム・ブレイク 』ー「自由意志と霊視の詩学」自ら製本印刷し挿絵を描く。ゴシック芸術を「生きた形態」と尊ぶという通

り、カチリとした「理念」暗示の美しさー「詩的精神はどこにおいても、預言のスピリット( 霊)と呼ばれる」


 『正財 カール・ウエーバー』ー独ロマン派音楽の国民的英雄ー民族オペラ「魔弾の射手」ー夢想、神秘、素朴、ホルンの響き、銃声

、歓喜、恐怖、ドイツの森、自前のオペラがここでイタリア・オペラの座を奪う。


 『正財 ジォジ・サンド』ー仏ロマン派女流作家ー感傷的ロマン主義から、神秘的社会主義、田園小説、牧歌恋愛小説へと変遷「芸

術とは実証しうる現実の研究ではなく、理想の真理の探究である」感傷過多、平凡陳腐、冗漫な文体の中、傑出する田園風景描写と

素朴な人間への眼差し、幾多の恋愛遍歴と、熱心な女権拡張論者とある。


 『正財 空海』ー「三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを識らず 生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く 死に

死に死に死んで死の終りに冥し」 「時間の無限性」、思考の不可能性を言う。「六塵みな ことごとく文字なり」ー「真言マントラ」は感

覚感情思考の「呪文」では無く、主客合一の絶対的理念であり、「曼荼羅」は地上に立てたモニュメントの道程標に見えてくる。


 『正財 西田幾太郎』の近代思想を超克せんとする「モニュメンタアル構想」も 10年間の座禅経験、( 比肩)トーマスヒル・グリーンの

主客合一論、そして( 劫財)マッハの要素世界合一論等々から「知的直観」された「絶対世界」からの演繹で論は築かれる。

「純粋経験」「弁証法的一般者」「超越的述語面ー意識ー於てあるー場所」 述語である一般者( 無限) に特殊である主語がどこまで

も近づいて、「絶対無の場所」「真に思慮分別を絶した、真に直接なる心」「我もなければ神もない、有るものは有るがままにある」の絶

対客観世界が提示される。ここには( 傷官)ウイリアム・ジェイムスの「純粋経験の世界」、( 傷官)フィヒテの「事行」と( 傷官)ベルグソ

ンの「純粋持続の直観主義」も、傷官と正財の最良なる精神の相性として、西田哲学の実証精神「知的直観からの演繹思考」に寄与

している。

「若し真の実在を理解し、天地人生の真面目を素人思うたならば、疑いうるだけ疑って凡ての人工的仮定を去り、疑ふにももはや疑い

様のない、直接の知識を本とし出立せねばならぬ」「さらば疑うにも疑ひ様の無い直接の知識とは何であるか、そは唯我の直覚的経験

の事実即意識現象に就いての知識あるのみである。この間に主観と客観とを分つこともできない」「純粋経験は時間空間個人を知るが

故に時間空間個人以上である。個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中において限

られる一小範囲である、経験の特殊なる二様にすぎない」( 善の研究)ーこの前期の絶対客観から後期は主観の側を「絶対矛盾的自

己同一性」という「死の覚悟」の道を示して、( 正官)カントの「無限に対する理性の絶対矛盾」たる主観哲学を俯瞰するー「我々の自己

は唯死によってのみ、逆対応的に神に接するのである」「真の絶対とは、絶対矛盾的自己同一的でなければならない」「宗教的覚悟と

は知識及び意志の根底に横たはれる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である」

この死の自覚から「平常」「無心」を説くのは、正財自我にとつて死の自覚はイメージでの無際限ではなく、「無限の観念( 理念)の観

取」の方に信を得るからである。思考する自我コギトの絶対性( デカルト)は次の様に確信される、「理とは万物の統一力であって兼ね

て又意識内面の統一力である。理は物や心に由って所持せられるのではなく、理が物心を物心を成立せしむるのであ。即ち所謂客観

的世界も同一の理に由って成立するものである。此故に人は自己の中にある理に由って宇宙成立の原理を理会することができるので

ある。若し我々の意識の統一と異なった世界があるとするも、此の如き世界は我々と全然没交渉の世界である」


 『正財 三島由紀夫』に「思考する自我コギトの絶対性( デカルト)」を当てると、( 印綬)加藤典洋の「三島の戦前戦後を通じて変わら

ぬ客観の自意識は、戦後の欺瞞と戦争の死者への負い目に拠り、不可避的に昭和天皇と三島自身を重ねて糾弾する事が文学の隠

されたテーマとなった」とする「戦後的思考( 1999 ) 」は信憑の度を増す事となる。三島は戦前のフランス文学を夢みる浪漫派小説家

で出征回避をも行った自分に立ち返り、「死の覚悟」に拠って「無限の観念( 理念)」との苛酷なイロニーに殉じた事になり、文学営為は

書くものに欺瞞を許さぬ「意識内面の統一力( 理)」の発生現場として作用したのである。

昭和天皇( 傷官)自身の戦争責任に関する文書が出た現在から見れば、あらためて「正財自我と傷官自我は理に生きる」、そして「絶

対矛盾」の中にも正財は「理の極限」を確信する。

西田哲学「於てあるという場所」は、日本語の「てにをは」の内でどうしても省けない「に」にヒントがあるとする桶谷秀昭説、主客の曖

昧な日本語の特性をも考慮して、意識を「場所」という形而上的言語でナゼ呼ぶかを私なりに考える。

「於てある」は「知る」と云うことで、それを可能にするものとして意識は場所とよばれる、とある。

意識は「絶対客観である神が」「知る為の」「場所」なのである。実体論的に言い直して見るとよく判る。

この主観の無限集合を絶対客観とする事に対しては、「我々の意識の統一と異なった世界があるとするも、此の如き世界は我々と全

然没交渉の世界である」で釘がさされている。これがおそらく解決書にある西田に影響を与えたとする、( 劫財)デデキントの「集合の全

体と部分が等しいものを無限とする定義」からの直観なのであろう。

「不可知の無限 =一般 = 神」が一歩特殊のほうに近づいている。ノヴァリスと同じく「神は私を通して知る事が可能である」ことになる。


 『正財 ティヤールド・シャルダン』ー「現象としての人間」「宇宙の進化」ー全的統一の到達点「オメガ点」へ向け、物質の精神化の過

程でキリストはその進化を象徴する者として、我々の前に現れた。


 『正財 シモーヌ・ヴェイユ』 ー「わたしの今いる地点から、創造を眺めたがっている神の姿は容易に思い浮かべることができる。それ

なのにわたしが遮蔽物になっているのだ。神がこの創造を見る事が出来る様に、わたしは身を引かねばならない。わたしがそこにいな

い時の風景をあるがままに見る事・・・自分で自分の根を引き抜かねばならない。木を伐って十字架をつくり、日ごとにそれを担うこと」 

ヴェイユが「平常」「無心」を云っている。

愛用の「根こぎ」とは根こそぎ引き抜く事、「根」とは土地文明、父祖から引き継いだ一切の歴史の先端で自分が感じること。

「重力と恩恵」「神をまちのぞむ」「根をもつこと」「ある文明の苦悩」「戦争と革命への省察」の著作者、 ソルボンヌ主席( 次席は比肩

のボーボワール)の平和希求する優等生、ユダヤ人、工場ブレス工体験、変頭痛と衰弱のナチズム時代をくぐる、 34歳で死去。 

「ヴェイユはほとんどの保守主義者よりも、はるかに伝統を愛していた」ー( 劫財)TS・エリオット


 『正財 吉本ばなな』ー「小さい頃からすべて出会うものを、いつもどう書くか考えてきた」


( 正官)ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」は帰納法的な「意識の流れの方法」である。以下の三者の意識の流れは推して、合流せず

に分流して行くものである。


 『正財 ヴァージニア・ウルフ』ー「船出」は「意識の流れの方法」の先駆的作品とある。「人生はぼうっと明るい光暈、半透明の外皮

であり、このたえず変化する未知で限りない精神を、異質なもの外部のものを排除して伝達するのが、小説家の任務である」年収 500

ポンドと鍵のかかる部屋を要求するフェミニズム宣言の書「自分だけの部屋 1929」、長期精神不安定からウーズ川にて投身自殺。


 『正財 フォークナー』ー中上健次の紀州物語に影響絶大なる、アメリカ南部白黒混血物語のノーベル賞作家。「むなしき響き」は「

意識の流れの方法」駆使とある。深夜のテレビでポール・ニューマン主演のアメリカ版「枯木灘」を観た。原作フォークナーか。


 『正財 プルースト』ー「マドレーヌの味が幼年時代に系がってゆく」 ウルトラ長編小説である事の記念碑的作品の著者。

「神は私を通して知る」ということであれば、プルーストの本気と必然性が了解できる。

「プルーストの現前ぶりは、図書館や本屋の一隅から文学活動の全域へと拡がり出す、生きた言葉の群としてあたりにみなぎっている

。・・コルク部屋の喘息もちのプルーストよりも『失われた時を求めて』の話者が、そしてそのテキストが問題であり、解読不能な環境と

してあるプルーストを前にした眩暈こそが真の対象であったのだ。全巻を読み直すだけでさえ、どれだけの物理的時間が費やされるの

か見当もつかず・・・さらに新たな迷路のような解読を後世の人間に強いるプルーストの言葉の無限性にあらためて驚愕した」−「批評

あるいは仮死の祭典 ( 印綬) 蓮実重彦著」ー フランス文学専門家の見た 1973年の仏国内の知的状況である。


 『正財 アーサー・ケストラー』ー「ホロン革命」ー全体( ホロン)は部分と全体を併せ持つ。ニユーサイエンスの成果を駆使して全体(絶

対世界)を説く。西田哲学の「死の覚悟による無限の観念への確信」は夫人との安楽死によって実践される( 1983没)。


 『正財 ルイ・アルチュセール』ーマルクスの主客区別( 主観では埒あかない)こそが「マルクスの理論的革命」であり、資本論は経済

の書ではなく社会構造の解剖学で歴史の科学であるとした俗流「マルクス現象の記念碑的側面」を評価する。

客観への信がマルクス主義を救うロマン主義的イロニーとなっている。


    以下は「記念碑的方法」と、一方の暫定的方法「常道、常識」「保守篤実」を留意して、正財人名を追ってゆく。

イメージで着色混乱された生活の中に、隠れた知恵、当り前過ぎて言挙げされない「公理」を「良識」によって取り出し、明確一般化す

る事。長い時間に耐えて「良識を常識化」して行く過程が、「平常、無心」という客観世界への自己浄化である。長い時間に耐える事に

おいて良識、常識、伝統には意味がある、経験事実のなかにそれらを探る「神ある精神」である。正財の今ココの現実精神の弱点は

系統観を持てぬ事だが、「長い時間に耐えるものは必ず系統を持っている筈である」が正財の知的確信となる。


 『正財 山本健吉』の三島評「氏が自己英雄化のドラマ定着を図った戯曲と小説は、いずれも公的な場であって「相聞の私情」を訴え

る場ではない。氏は公認の文学だけがあって、日常的な炉辺の談話風の、礼を知らぬ文学はなかった」


 『正財 佐藤一斎』ー「漸」ゼンの一字がその「理念」を示すー「天道は漸を以ってめぐり、人事は漸を以って変ず」ゆっくりゆっくりと時

間、物事は進んでゆく。「自分の身体は、父母が完全な形で生み出してくれた。完全な形でこの身体を返却せねばならない。死に臨む

時は他の事考えず、主君と父親から受けた大恩に感謝して目をつむる」ーこれを「全終」完全な人生の終わり方と言う。一斎において

は又、抽象的理念は朱子学から、暫定的道徳は陽明学からと使い分けられて「篤実」が実行される。


 『正財 明恵』は( 偏印)法然のイメージ「念仏」の新興宗教に対峙する、保守鎌倉仏教「華厳宗」の重鎮である。華厳は「一即一切」

「重々無尽」無限に重なり、無限に融合する絶対客観の世界である。イメージでは追いつけない直観知で捕らえらるものである。
 

 『正財 山崎闇斎』の垂加神道は尊王攘夷思想の発火点である。臨済宗から朱子学そして忌部神道、賀茂神道、御霊神道、稲荷

神道と渡って「理」を具象言語化する。先に理念を掴んでいる。


 『正財 テンニース』ー「ゲマインシャフト共同性」と「ゲゼルシャフト公共性」の世界観ー世界はゲゼルシャフトの方に進み行くが、共

同性を共同社会、公共性を利益社会と言う事でゲゼルシャフト内でのゲマインシャフト的政策を説く。社会もまた「漸」で進むから。
 

『正財 デュルケム』ー「アノミー = 社会的自己崩壊状態」ー「社会的事実を事物のように考察せよ」は人間集合を客観的方法で観取

可能であるとする信念、必要性を示す。

「宗教とは、聖なるものを俗なるものから区別分離する信念と儀礼の体系である」は神ある自我の信念とモニュメントを言っている。


 『正財 ジェイムス・ハミルトン』ー 17世紀の民主政治原理の発案者ー土地の所有面積の割合から民主制を云う( 3/4 以上が国民

所有となる事) 。王制および貴族制も土地面積から規定する。


 『正財 マルセル・モース』ー「贈与論」で未開社会の交換に道徳性を見出し、経済合理主義に対峙させる。デュルケムの甥で協力

者、そしてデュルケム亡き後のフランス社会学界後継者。


 『正財 ハーバーマス』ー「コミュニケーション的行為の理論」は「討論」の中に理性の発展を希求する。ポストモダンの反理性主義に

対して「コミュニケーション的合理性」の概念を対置する。近代哲学については「近代というプロジェクトに伴ってきた失敗から学び、思

い上がった形で近代を廃棄しようとする計画の失敗から学ぶべきである」。


 『正財 ベルイマン』映画の画期も、欧州の感情ロマン主義「ヌーベルバーグ」に対して、孤高を保った「理性」の持続性にある。


 『正財 イプセン』ー「人形の家」は正財の男性側から女性解放自立の理念を提示していることになる。冒頭の「妾を持つ事」の件が

ひっかかる。私の知る限りの正財男性で、これを言える事は相当の人物である。


 『正財 アレキサンドラ・コロンタイ』ー「赤い恋 1923」ー不実な夫を去り「共産主義の子」として産む決心する主人公。「家事育児を国

家が代行する事で女性解放、家庭消滅される」ことの確信。「性行為は各人が必要に応じて渇きを癒す一杯の水にすぎないー恋愛の

共産主義」は、同志レーニンの「ゆき過ぎた合理主義」との批判あり、とある。


 『正財 イヴ・タンギー 正財 マッタ』は( 正官)アンドレ・ブルトン( 正官)マックス・エルンスト( 正官)アンドレ・マッソンとの「シュルレ

アリスム宣言 1924 年」のメンバー。正財と正官「常識と人格」の融合、特上の相性に驚く。理性と倫理の人々が「理性によるいかなる

制御もなく、美術上ないし道徳上のいかなる先入主からも離れた思考の書き取り」を宣言する。


 『正財 ダリ 正財 滝口修造』のシュルレアリスムは、時間空間的統合を離れても「物質の存在感」を手放さない。


 『正財 ブラック』のキュビズム、 『正財 ディシャン』の「泉」と称する便器、もまた物質感( 客観世界)に負っている。


 『正財 カルティエ・ブレッソン』ー「決定的瞬間」の絵画的写真は客観世界の統一瞬間を狙う。

「無限に流れる時間は止まっているものの連続である」ー無限( 絶対)の全体を静止によって貼り付ける。


 『正財 クレメント・グリンバーグ』ー「アバンギャルドとキッチュ」ー戦後アメリカ型抽象芸術の理論指導書、「絵画の二次元性、平面

性への純粋化」、非合理を嫌いフオーマリズム( 形式)を説く。 60代以後の反グリンバーグ時代においても貴族主義的孤高を貫徹。


正財の主たる相性を云う。「常識」と「篤実」は実人生において比類無い力となる。

   正財は十人中の九人と上手くゆく。

   正財は一人劫財のみにより、無自覚にリアリズムが破壊される。

   正財は正官の正義を助け無敵となる。特上の相性である。

   正財は傷官の知的直観を一般普遍化、現実化する。正官と同様に傷官との連合体は無敵となる。

   正財はそのリアリズムで印綬を圧倒する。

正財の絶対客観は総ての経験する理性的自我の無限集合であり、公理の発展過程である。この重力の効いた地上の水平軸「一般

性の絶対客観」を踏み台に、傷官の外部( = 絶対客観)に向けての普遍性ヘの垂直ジャンプが行われる。傷官はもう一段高い絶対性

を目掛けるとも云えるし、正財の超越論的視点が低いとも云える。ナゼ正財と傷官が喜ばしい関係にあるかと云えば、 10通りのタイプ

の中で「絶対客観を確信するもの」は両者の他ないからである。一方は個々の現実の中に、一方は変化流動する統一事象体にこれを

観るのである。

正財はおおよそ観取した理念からの客観記述となる。意識の流れと云う方法での主観表現も又「世界から見られる意識」はない。

世界から見られる主観の意識は、記憶によっても客観が我が物とならず意味固定出来ずに格闘するが、正財の主観では記憶表現に

おいても意味規定しながら内面を進んでゆく。


以後は抜け落ちたものを書き付けて正財の項を終わる。

 『正財 マッカーサー』の( 傷官)昭和天皇との喜ばしい関係からモニュメントされた「日本国憲法」・・・・・・・・がある。


 『正財 正岡子規』ー「子規の方法は古今集の下句主情部を事実記述、静物画に置き換え感情を抑えたもので、新しい詩的人格で

はなく、西欧文芸意識を照れくさくて出来ない保守的気質の人格である( 偏財)吉本隆明」「子規の写生は自他に対する異常なばかり

の正直さという、平仮名言葉で言い切ったほうが、それにふさわしい( 正官)司馬遼太郎」の両者ともに正解と見る。「赤トンボ つくば

に 雲もなかりけり」ー感情感覚そして時間空間の奥行きが創れないからの「写生」理念である。宣長と同様に不向きなのである。


 『正財 島木赤彦』ー「この森の 奥どにこもる 丹の花の とはにさくらん 森のおくどに」ーアララギ派の終着点、「対象即自己」の鍛

練道では奥行きと無限世界を仮構できず、そのままの言葉が貼り付けられている。一方の終着点( 印綬)斎藤茂吉の深みある統一世

界と比べれば納得できる。


 『正財 島田伸介』ー「おまわりさんに相談し、同郷の不良と渉り合った不良少年時代の常識」、報道キャスターを常識のスタンスで

こなす見事さ。推して『正財 世良公則』『正財 ヒロミ』『正財 岩城コウイチ』『正財 矢沢永吉』『正財 長渕剛』これらの人物には

外見イメージからは計れぬ「良識」が働いている。良識理性の人々なのである。


 『正財 松平定知』に白虎隊について『正財 黒鉄ヒロシ』が言う。「司馬さんはあれがあるから、日本人もなかなかのものだと言え

るといつていますが、それをああいう形で残したことがスゴイ」記念碑的方法の事である。美化された「白虎隊」はロマン主義そのもの

である。「絶対矛盾的自己同一」の客観理念が受け取れぬ十人中八人には、悲惨のイメージしかやっては来ない。


 『正財 レーガン』の自伝作家が言う「伝記をたのまれて 13年間レーガン個人を追うが、私的な部分が見当たらずに驚嘆する。

私的感情体験を含む出来事がなく、総てが客観事実のみで終始する」、 CBS ドキュメントの中で悩んでいる。


 『正財 コンディヤック』ー「ピノキオ感覚論」ールソーと親交ある近代感覚論の代表者、「彫像が刺激され感覚が発生する。判断意欲

はその変形にすぎない」。素朴合理主義時代のモニュメンタルである。近代はここから出発した。



「 ・・・・・ボクは死なない ナゼナラそれは ボクは自分 自身だから」ー『自殺の小学生の詩の末尾』ー私はこの詩を何年か間を置い

て二度、本を違えてその引用で見た。驚きとともに深い処に触った気がした。今はこの少年が特異と思わない。

十人中二人の内のどちらかだと思っている。感情は永続しない。恐怖が去り、後にやってくる「絶対自我」の確信はある筈である。
                  「金色の ちいさき鳥の かたちして 銀杏ちるなり 夕日の岡に」


                                            『正財 与謝野晶子』