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た だ                ひ と 
(白部は主体を示す)
主 客 標 示
標語 「良識正道」「人倫道徳」「処理区分」「時間厳守」
  正 し き 人

正官 
せい かん 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13

   正官人名リスト

パスカル   スピノザ   ルカーチ    カント   レヴィナス   ショウペン・ハゥアー   ボードレール  アダム・スミス  シュテルナー

レヴィー・ストロース  ヘンリー・ミラー   イェーツ  メーテル・リンク  ハイゼルベルグ  シュバイツアー  ゴタール マクルーハン

シャルル七世   ジョン・F・ケネディー   ラルフ・ネイダー   ヘイズ   サイモン   ゾルゲ   カール・ディスタン    ドゴール

グェン・バン・チュー    ダントン    マクガーバン   カール・デェニッツ    キム・ソンスク   チャールズ皇太子    マザー・テレサ

パウロ二世  サンサンスー  リーマン  シュライエル・マハー  ミケランジェロ   ヴィコ  ホジスキン サン・シモン  シュトルム

バブーフ   カサノーヴァ   プーシキン    F・ブレンターノ   メッテルニッヒ   ミシェレ   ラッセル   ヴォルテール   ホブスン

ジエームス・クック    ドヴォルザーク   ジュラス・ゴンクール    ゴールトン   オルテガ   イゴール・シコルスキー  ハイナック

ワイルダー・ペンフィルド   スタール夫人   ジェイムス・ジョイス   モーロア  カール・ポパー  ビリー・ホリディ  アンリー・ルソー

セザンヌ   ボナール   アダモ   ジャンヌ・モロー   マイク・タイソン   ヤルゼルスキー   ノリエガ将軍  リンダ・ロンシュタット

ワルラス    ロバート・ルーカス    マイケル・ジョーダン    ジエームズ・フルブライト    ベルルスコーニ首相  M・スカルノ・プトリ

KR・ナラヤナン     ゲォルク・ショルティ     オリバー・カーン    ヴァイッゼッカー大統領    サマセット・モーム     陳独秀  

ジャツク・デンプシー    シンクレア・ルイス    アンドレ・ブルトン    マックス・エルンスト   アンドレ・マッソン    ル・コルヴィジェ

ポール・ディラック   C・ブレンターノ   ジェツーリオ・バルガス  ファン・ブラウン レニリー・フェンシュタイン   ヨゼフ・シュンペーター 

ジャネット・ランキン    ルース・ベネデ゛ィクト    ジョージ・オーウェン    ジョセフ・マッカーシ   ルイ・クレマン    ヒュー・ヘフナー

 ゲルハルト・ショーレム      ハロルド・マクミラン      ユーリー・ガガーリン     レオニダス・トリヒーリョ    ルドルフ・ヌレーエフ

ブライアン・ジョセフソン   ナムジュン・パイク   ナットキングコール   マリアン・アンダーソン  金芝河  サルバドール・アジェンデ

ジョン・オッブダイク    ヤン・パトチカ    ジョージ・ペパード   アンバン・クロフト   エフワン・セナ   リチャード・ウッドマーク

ポール・マッカートニー   ヘンリー・ホンダ  マルチェロ・マストロヤンニ  ジャック・レモン  ソフィヤー・ローレン  カーク・ダグラス

マリリン・モンロー   フランク・シナトラ   ユル・ブリンナー   ロバート・レッドホード  バート・レイノルズ  ジェイムス・スチワート

ピーター・セラーズ   ビンセント・エドワード   キャンデス・バーゲン   バスター・キートン   シヨーン・ペン  アレック・メギネス

ダニエル・ダリユー  タニヤ・ロバーツ  エマニュエル・リバ  リブ・ウルマン  モーリン・オハラ  メリナ・メリクーリ ポープ・ラング

メリッサ・ギルバート   マリエル・ヘミング・ウエイ   マチルダ・メイ   ベラ・マイルズ   スーザン・ジョージ  フィービー・ケイツ

デミ・ムーア   シモーヌ・シモン   ジエニファー・ビールス   クローデット・コルベール  カトリーヌ・ドヌーヴ  ドリュー・バリモア

アニー・ジランド    エバ・ガードナー    ギャビー・ホフマン    ロバート・デニーロ    ロッド・スタイガー    ロッド・ティラー

ローレンス・オリビェ   ローワン・アトキンソン   ロイド・ブリッジス  レックス・ハリスン  ルドルフ・バレンチノ  リチャード・ハリス

マシュー・マコノヒー    マーク・ハミル    ベン・ジョンソン    ブロデリック・クロホード   バート・レイノルズ   バート・ヤング

トニー・レオン   ダニー・グローバー  スペンサー・トレーシー  ステイシー・キーチ  スタンリー・ベーーカー  ジョン・ギールグッド

ジエームス・メイスン   ジェーソン・プリーストリー   クリント・イーストウッド   クリストファー・リーブ    クリストファー・ランバー

クリストファー・ウォーケン  ウオルト・ディズニー  アンダン・クイン   パトリック・マッグハーン   ロッキー青木   キム・ヘギヨン

ポール・リクール

親鸞 伊達政宗 一茶 中江兆民 大隈重信 山岡鉄舟 児玉源太郎  田中智学  秋山真之 水戸光圀  豊臣秀頼  水野忠邦

庭野日敬  椎名麟三 安田善次郎 石川六郎  三木武吉 大野伴睦  細川護熙  藤堂明保  金子光晴  阿川弘之 大田薫

岩井総評局長  中内均  司馬遼太郎  埴谷雄高  安藤次男  立花隆  島田裕巳 藤本義一 広瀬隆 三宅裕司 平野次郎

紀宮清  浅野忠信  横沢彪  若林正人 鈴木邦雄  蟻川幸雄  倉本聡  渡辺えり子  川本三郎  石垣りん  石川三四郎

花輪和一  いしいひさいち   今東光  田岡組長  渡辺淳一  井上悦子  五木寛之  石原慎太郎  景山民夫  小林信彦

黒田征太郎   西条八十   円地文子   大藪春彦   田原総一郎   下重暁子  上坂冬子  長谷川慶太郎  鈴木志郎康

南伸坊  サトウハチロー  谷川健一  横尾忠則  小川宏  川崎徹  向田邦子  水上勉  前田武彦  今村仁司 尾上松禄

田中小実昌   山村道子  土井まさる  笠井叡  江上波夫  利根川進  吉岡忍  高梨豊  南山宏  富田勲  船井幸雄

高田好胤  重信房子  榎美紗子  甘粕正彦  林郁夫  岐部哲也  高橋克也  田川誠一  渡辺美智雄  林義郎 玉置宏

安藤百福   山本耀司   堀辰雄   西園寺公望  津島佑子  岩野泡鳴  山崎拓   美濃部達吉  相沢三郎  山口昌男

板井三郎   辺見庸   宮本常一   与謝野鉄幹   浅田次郎  香山リカ  三浦綾子  堺屋太一  新井将敬  福田和子

山根一真   清水広保   船木和喜   五嶋みどり  牟田悌三  平島栄  井田由美  犬岡優一郎  鷹西美佳  古屋和男

三宅民夫   石井紘基   山本耀司   牧野伸顕   高木貞治  三好晃   前田夕暮  前田透  中城ふみ子  杉田久女

水原秋桜子   高野素十  川端芽舎  三橋鷹女  石田波郷  芝不器男  春井健  富小路禎子  西脇順三郎  八木重吉

菅原克巳   高橋敏子  黒田三郎  宗左近  吉原幸子  斎藤庸一  三好豊一郎  松尾スズキ  小宮山洋子  藤井郁也

細川たかし  甲斐よしひろ  チヤック・ウイルソン 二子山幹士  堺正章  大滝秀治  中村雁次郎  ジェリー・藤尾  石原三郎

夏木陽介    田中義剛    荻原真一   古川ロッパ   三遊亭小円遊    ガダルカナル・タカ  松福亭松之助  中村敦夫

船越英二  ラッシャー板前  内村光良  井上純  川崎麻世  金田賢一  林屋コン平  藤山寛美  杉村春子  西田佐知子

内藤洋子  中島みゆき  薬丸裕英  駒田徳広  尾崎直道  林屋小染  つぶやき四郎  坂東英二  原田伸郎  高松しげお

江藤博利   浅川マキ   辰吉丈一郎  ドカベン香川  大石大二郎  森晶産  矢沢健一  近鉄・小川  高見山  古賀稔彦

西本幸雄監督    曙   大島康徳   田村亮子   植芝盛平  江本孟紀  鈴木孝政  杉浦茂  猪木寛至  巨人・シピン

ダンプ松本   古田敦也   志穂美悦子  中田喜子  三原葉子  秋本奈緒美  中村雅俊  左幸子  三波豊和  加山雄三

渥美清   竹脇無我   狩人・兄   寺尾あきら  水谷八重子  神津かんな  安達祐美  叶順子  高田みずえ  田中絹代

岩崎宏美   大谷直子  中村玉緒  鈴木ランラン  浜木綿子  松島とも子  ポール牧  横山たかし  二谷友里恵  大川豊

井出らっきょう   堀内健  越前屋俵太  坂本昌行  大澄賢也  長瀬ともや  阿部寛  伊吹吾郎  岡本信人  岡本富士太

喜味こいし  志賀勝  須賀不二男  田辺誠一  デビット伊藤  野村将希  はしだのりひこ 八名信夫  柳葉敏郎  飯島直子

久里千春  柴田理恵  鈴木京香  牧村三枝子  水野美紀  村上里佳子  室井滋  光浦靖子  大久保佳代子  三又忠久

阪神・今岡誠  パフィー・由美  住田隆  ぶーまー・伊勢  真鍋かおり  原口あきまさ  コージ・富田  福留孝介  渡辺博幸

広沢克  若松勉  真中満  阪神・リベラ  阪神・ジョンソン  西部・ブロス  高木大成  若田部健一  城島健司  黒木潤司

古賀潤一郎   キングコング梶原    根本はるみ   長野智子   鈴木亜美   橋田信介   川上弘美   ドラゴンドラゴン・鈴木

インパルス・板倉  ロバート・馬場  ラーメンズ・片桐  堀江貴文  松中信彦  中村哲  白鵬  岡崎久彦  浅野史郎




    正官考察  

正官の標語は「良識正道」「人倫道徳」「処理区分」「時間厳守」である。

正官は「善き事」を他人に押し付けたりはしない。「悪い事をかんがえられない」「リアルな悪い事の仮体験に、強い違和によって入り

込めない」と言うのが身辺からの経験である。

視野は狭く、二つ以上の大事を同時期に抱えると混乱する。「チョットこうだよネ」と私は両手を目の両脇に当て視野の狭さを言うが、ソ

レデモ継続する時間の中にこの性情を置くと、その貴重さがズシリと腹の底から伝わってくる。

会していると刺激がないから自覚できぬが、遠ざかるとその人物を通して形而上的な糸口、後天的に性格が決定されると言う説がウソ

だと思わせる、知的直観が現れる。

年を増して尚、「善き事」で生きつづけるこの人物の「性情」が、勿体無くなってくる。

リストからこの基本性情が良く現れている人物を挙げる。これにはどうしようもない「当たる触りの感覚」が在る。

 「元近鉄西本監督  近鉄大石大二郎  藤本義一  立花隆  五木寛之  三宅裕二  田中小実昌  渡辺えり子  中村玉緒

中原弓彦   川崎徹   吉岡忍   浜村淳  二子山幹士  岡本富士太  中島みゆき  古田敦也   若松勉   内村光良

岡本信人  田村亮子   阪神・今岡誠   
堺正章  中村敦夫  牟田悌三  三浦綾子  山口昌男  平野次郎  倉本聡 

向田邦子  豊臣秀頼  三波豊和
  夏木陽介  田中義剛  鈴木ランラン  松島とも子  室井滋  堀内健  中村雅俊 

渥美清  
高田みずえ  藤井郁也  田中絹代  神津かんな  柴田理恵  加山雄三      田原総一郎  司馬遼太郎 

埴谷雄高
   細川護熙   三又忠久  ウオルト・ディズニー  クリント・イーストウッド  ピーター・セラーズ  ユル・ブリンナー 

ロバート・レッドホード  ポール・マッカートニー  ヘンリー・ホンダ  マルチェロ・マストロヤンニ  ローワン・アトキンソン  ロイド・ブ

リッジス  
ジャック・レモン
  カール・ディスタン  シュバイツアー  ラルフ・ネイダー  ジェイムス・スチワート   マザー・テレサ

どうでしようか。「善き心」で生きつづける「性情」を、感覚感情身体でイメージ直観してほしい。

これら人物の自我の方には神はいない。だから強要しない。神をいないとする事もできない、神に外から観られていると思う人物達であ

る。これを前項「先進批判」の傷官人物イメージと対比すると、感覚感情身体右脳のトレーニングになる。

私が気の力関係から、近代初期哲学史の主客配置が一致するという「整理の直観」を得たのも、この正官を巡った時である。

本生日の気の配置を云う。

外側世界生日自我を「制圧」し、その陰陽差は「異極」である。左上図に「主客配置」を示す。

白色自我は漆黒外側世界によって「制圧される」。主客の陰陽異極は、整理言語身体に拠る、理念原理を志向しての論理思考によっ

て世界と関係する。これは全項を通しての仮説である。

「制圧される」関係は、図で「客体は主体と混じらない」の意を込めて漆黒の矩形とし、この外界世界は自我にとって明瞭な場面意識「

いまここ」の「現実リアリズム」を生み出すこととなる。が、反面で主客全体の系統観を失う。

以上の関係は前項正財の主客がソックリ裏返った配置となっている。正財は「制圧する」である


外側世界によって「制圧される」自我がナゼ「良識正道」「人倫道徳」を価値とする世界観を持つかを、「自己に対する抑圧が自己規範

を産む」とする生命体モデル的解釈に加えて、正財の項で示した「実証的」という言葉を使って、整理の思考で言ってみる。

「実証的」ポジティブの語意には「積極的」「肯定的」「陽性の」そして「自信の強い」があり、正財の項では「自信の強い」と「制圧する」

の二つで「実証的」と考え、そこから
「自我が外界を整理言語に拠って規定」し、「言葉による規定は、変化する外界を嫌い、静的不動

の事象を優先させ」そして「
隔絶リアルの外界を、実証的に場面々において、客観形式で規定する」とする正財の世界観を導き出した。


正官はまるで「外界世界によって実証されるように」生きるのである。

「主客の大きい方に神がいる」の仮説は、本生日では信じるに足るものの在り場所は、外界の方にある事を告げている。

外界とは他者に始まる世界全体の事である。が、主体はそれを知る事ができない。知る事は自己の中のみで生起して終わる。

外からの仮想の視座を「客観」、その論理的なものを「超越論的主観」
と言う。まさにその知り得ないが信憑性のある場所から、「実証さ

れる」ごとくに生きる事が、「信じるに足るもの」となる。


絶対である神は非知の外界に在るが「神に実証されるように生きる」という事が、正官の性情「良識正道」「人倫道徳」の本源である。

そしてまた正官は「自我は隔絶リアルの外界を、実証的に場面々において、帰納してゆく思考法で規定する」
と云う事も可能となる。

   哲学思想の分野に、この主客の形を当ててみる。


 『正官 カント』は哲学史の中で上記の事をそのまま言及し、そのように生きた正官の大いなる見本である。

正財デカルトの「欺かない神ある自我が明晰判明に認識する実証精神」から 130年、 若きカントを( 印綬) ヘルダーは次の様に思い

かえす。「私は青春時代授業を受けた哲学者を思い、感謝に充ちた喜びに浸る。その人は私にとって真の人道主義の先生であった。

壮年期の彼は青春のような快活さを持ち、思想に満ち溢れ、この上なく愉快な話が、あいその良い唇から流れ出、ユーモアと機知と即

妙は意のままとなる。彼の中にあるものは、真理を求めて止まない熱意であり、重要な発見によって人類の幸福に寄与するという情熱

であって、悪だくみなどというものを知らない。そして彼の哲学は我々自らに思索する事を目覚めさせた。かれの講義程に優れていて、

活気あるものを考える事ができない。彼の思想は真に今、彼の中から萌出てくるように見えた。人は彼と一緒に思索を進めていかなく

てはならなかった。彼はいばって筆記させるとか、上から教え授けるとか、教義を振り回すとかいった事を、全く知らなかった。自然史と

自然学、人間の歴史と民族の歴史、数学と経験それらから人間についての知識を汲み出し、講義の一切に活気を与えていた」

( 偏印)ゲーテも言う「私はカントを一頁読むと、まるで明るい部屋に入ったような感じがする」

自然に対する学から人間に対する学への転回は、( 比肩) ヒュームの「感覚印象による観念連合の説」因果律の主観性、また( 比肩 )

ルソーの自然性を汲み込んだ感覚感情身体の発展物語「エミール」を動機として、成果はカント 57歳にしてようやく実を結ぶ。

その永い思索期間のテーマは「感性と理性との限界」である。

感覚感情生命体思考の経験論と、生得的理性の合理論の対立は「主観が客観に見誤られている事」で決着される。

客観世界から主観が物事を受け取るのではなく、主観が客観世界を創っているのである。コペルニクス的転回と呼ぶ。

「天におのれを懸けるものなく、地におのれを支えるものなし」  「現象は判るが物自体は判らない」 「無限の概念は理性で捉えられ

ず二律背反を起こす」 「時間が図式によって構想イマジネーションされる」 「時間は感性的でもあり先験的なものであるから、イメージ

( 感性的) と概念( 先験的) をむすぶものである」「空間と時間は主観の形式である」 ー ( 純粋理性批判 ) 

外界の絶対性「無限」は神の属性とされている。「時間」もまた無限に組する「不思議」である。時間に始まりがあるとすると、その前は

どうなのか。無限を規定確信する地点はどこなのか。無限を外から見る視点がない。絶対( 物自体) は理念の世界にあって時間空間

の場所に無い。理性が目標とする理念そして原理は、証明されずに「人に生きられる」ものである。

「汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」 「自由は道徳法則の存在根拠であり、道徳法則は自由

の認識根拠である」 「自律的( 自己立法)なものが実体である」 「霊魂の不滅と神の存在は要請される」 ー ( 実践理性批判 )

なぜならソレは人の為せる範囲で、何度失敗しても自由の中の理性目標として現れ、その依存性のない自律的なもののみが確信の

根拠となる事ができるから。  「私は信仰に場所をあたえるために、知識を放棄しなければならなかった」

 「思うことが度重なるほど、また永いほど新たな感慨と崇敬の念が心を満たすもの・・・・わが上なる星空 わが内なる道徳律」

漆黒外側、夜空のソコに「無限」が在る。ソコにあるのに思考で捕らえられず矛盾をおこす。理念の世界はその様にある。

カントは「実証されるように生き」たのである。自戒の初めは欠かさずの散歩、「規則正しい生活」である。感覚感情世界の大事を考え

れば良く判る。カントが「エミール」から得たものである。

 獄中での「純粋理性批判」との出会いに拠って、目からウロコが落ちたとする『正官 埴谷雄高』も、テレビの中で「規則正しい生活

者」であった。「死霊」はカントの思考で、( 偏印) ドフトエフスキーの感覚感情相対世界を整理してゆくものだと推測する。テーマの「自

同律の不快」は「感覚感情身体を背負うこと( 存在) の革命」と読む。「人倫道徳」の書でなければ延々と続けられないし、自我の安定

は計れない。

不純暗さのイメージとのギュップでは、 『正官 中島みゆき』の初期歌詞をも想う。理性で作ると熱は奪われる。フレーズ「砂の中の銀

河」もイメージの貼り合わせ「感覚感情身体思考」に拠るものではなく、「整理言語身体思考」による前後の理路がつくっている。

 「ノモンハンを書くと俺死んじゃうヨ」と言う『正官 司馬遼太郎』の言葉を、本文理路で言い直すとこうである。「外側他者を批判する

事は感覚感情を悪くし、追体験する無責任のリアリズムは整理身体を悪くする。外界世界に実証されるように生きる、それに値する理

念がこのノモンハンの世界には何処にも無い」  ・・・正官身体は事柄に対してのリアリズム、切実の感に敏なのである。


 『正官 パスカル』『正官 スピノザ』の時代はカントを約 100年さかのぼる。「パスカルほどの知性が、ナゼあれほど感情的になるの

か」と芸術実証主義者( 偏財)ヴァレリーが嘆く処の、「パスカルの繊細の心( 心情) 」ついて・・・・・

 パスカルは生きる事の中で二度向こう側から掴まれた。その外側絶対性との直結感、「回心」を可能ならしめるものとして「繊細の精

神ー心情論理」を説く。それは理性の限界を超えてやってくる。「神が心情の直観によって宗教を与えた人は幸福である」「心情は生来

普遍的存在を愛す」「心情は空間には三つの次元があること、数は無限である事を直観する」この場所から「イエスキリストへの愛の意

志」で生きる。「この無限の空間の永遠の沈黙は私に恐怖を起こさせる」「人間はもっとも弱い一本の考える葦である。宇宙が人間を押

しつぶすとしても、人間は高貴であろう。自分の死ぬこと、宇宙が勝ることを知っているから。・・・宇宙は何も知らない」

漆黒の蓋をされた宇宙の中に一つの知が、そしてその内側は「幾何学の精神が直接の生の体験を離れて単純明白な公理に向かうの

に対し、繊細の精神は生の価値評価を離れず、複合的な全体を一目で見るのであり、愛して知るのである」「幾何学の精神と繊細のこ

ころを共に持っとき、愛はなんと喜びを与えてくれることであろう」心情論理で実証される様に生きるのである。

「愛」もまた経験世界で永続されない「理念ー原理」として、理性の前に立ち現れる。


 スピノザは幾何学的証明形式によって、観念の神「無限の実体」からすべてを叙述する。この神は像を伴うイメージ思考の「無際限」

から切断された、整理言語の極点「無限」を示す。この「観念の神」に比べれば、われわれの思考は一般的観念しか形成しない。その

神が外側自然に内在する。しかも「神は何らかの目的のために存在活動していない( 自己原因 )」「それが存在するのと同じ必然性で

活動する」在りて在るものであり、知ること叶わない。神から産出された総てのものは「実体の変様、言い換えれば神の内に存在し、ま

た神によって考えられるもの」である。神は自我から限りなく遠くに設定されるか゜、自我は神に見られ考えられている。この伺い知れぬ

神の遠さは「意志は自由原因ではなく、必然的原因としか呼ぶことができない」とカントの論証と裏返る。

スピノザは「原因から考え理解する方法」神からの演繹を考えるに際して、考えられる限りの普遍性を考えたのである。時代と情況( 時

間空間) から遠く離れて。その分現実の善悪感情問題に対する偏狭さが減殺され、自他への許容が増加する。「永遠の相の下に認識

する事が善」であり、これを「神への知的愛」と言う。これが実証されるように生きる「倫理エチカ」である。

「精神が今存在し始めたかのように、ものが永遠の相のもとで初めて認識されるように、考察されねばならない」「精神はあらゆるものを

必然的なものとして認識するかぎり、感情に対してより大きな力をもつている」


 『正官 ヴィコ 』ー「新科学原理」ー「創った者だけが創られたものの内実を知っている。自然は神が創ったから神だけがしっている。

人間は自然の外辺しか知りえない」「歴史は人間が創ったのだから、人間は歴史の内的真を知ることができる」「歴史の内的認識、

精神のリズムである正流と逆流、歴史の三段階」「法は人類の良識に発し人間精神の発展史の根源に関す」ー歴史哲学の先駆者

一切の根源は心にありとする主観主義思想は、 200年後の同郷イタリア( 正財) クローチェに影響を与えた、とある。


  ここから凡そ500年前、 『正官 親鸞 』が「絶対他力」を会得する。ここでも絶対性は外界に在って、自我には「念仏しか無い」とい

う世界観であるが、問題はこの「絶対他力」が理念原理なのか、像的イメージ・シンボル「阿弥陀本尊」への観想であるかである。「悪

人の方が往生できる」とする悪人正機の説が、私には「他力観念の論理必然性」の前での、「こちら側からは理解できない絶対世界」と

の、自我直結を願う姿に見えてくる。パスカル、スピノザに重ねて思っているのだが。性欲との格闘の末の妻帯も、向こう側から掴まれ

ている。真偽はともかく「宿報での女犯の際は、私が妻となり犯される」と救世観音が夢告する。何度念仏を称えたかの、熱心さによる

救済を「一念」だけで良いとするのも、理路の必然性と思わせる。

親鸞のその他矛盾を含んだ言い回しも、客観から主観への転回と見る方が腑に落ちる。「絶対他力」を西洋の理念に求めれば「平等

原理ー人道主義」であり、何よりも親鸞ほど大乗仏教特有の盛り上がる感情世界から遠い人物はいない。

スピノザと同様に神、イヤ仏のイデア性が高いために、経験世界での許容域は拡がるのである。

本説では「悪人正機説」の本意を「人倫道徳ー理念の普遍性」に求めるため、一般言説「実存主義者・親鸞」の説は採用しない。

本文の実存主義は、「偏官」の項にて述べる。


  『正官 ショウペン・ハゥアー 』ー「意志と表象としての世界」は露骨に本文主旨に沿っている。

外界世界の唯一絶対の「意志」は「力」である。その現象する表象を、自我は主観で受け止める。「私の哲学は一言でいう、世界は意

志の自己認識である」 外界「意志」はカントの「物自体」と同じく「現象は判るが意志自体は判らない」無目的のものである。

現象化した「生命意志」ディオニソスの意志も悪である。「この世は悪であり、これ以上悪であれば存在は不可能である」

不合理と憂鬱と絶望の時代の中、倫理学と形而上学の合体をめざして脱出口を探る。

ペシミズム( 悲観、厭世、最悪思考) の哲学といわれるが、( 傷官) ニーチエ「力への意志」と比べて驚くべき素直さである。が、ニーチ

エの方がこの素直な世界観に驚き、踏み台にしたのであるー「私はすぐさま精力的で陰鬱な天才の言葉に惹きつけられた。ここでは

一行々が断念の、否定の、諦観の叫びを発していた。私はここに世界と人生、私自身の情緒とを大規模に映し出した鏡を見た。私を凝

視しているのは芸術の持つ無私で完全なる太陽の目であった。ここに私は疾病と快癒、追放と避難所、地獄と天国を見た。自己認識、

いな自己解剖への欲求が私を捕らえた( ニーチエ) 」ー傷官の絶対自我は正官の「良識正道」を破壊する。最悪の関係である。しかし

これで、ニーチエの表現が良く判る。

「同情ー共苦」がショウペン・ハゥアーの倫理の到達点である「カントは弱者に対して共苦同情を感じることが徳であると言わない・・・あ

らゆる真の純粋な愛は共苦である。共苦でないような愛は我欲であり、我欲はエロスであり、共苦はアカベーである」「自他の区別は時

間空間という個体化の原理が支配する現象世界のみの事で、あらゆる個体は本質において同一である」

カント学徒を自認し、在野で思考し( 偏印) ゲーテ、ヴァーグナァーの相対虚無世界観と交わったカントの分身が、「実証されるように生

き」たのである。日常自戒の初まりは、小犬と伴の散歩である。


 『正官 ボードレール』 ー 「理性と計算の詩人」 「近代批評の父」 「機械の発達と文明進歩は、人間の精神的部分をすっかり萎

縮させてしまうだろう」 経済の合理化は、「正しい仕事」労働価値説を奪う。仕事を通じての善が育たない。 「万物照応、万象反応、

言葉の化学反応、アレゴリーという深さをもつ時間」 「デカダンスー祖先の美しい夢に癒しがたいノスタルジーを抱き、早熟と悪癖によ

って内なる命の源を枯渇させ、己の不運を醒めた目で裁く」 「ダンディズムー精神貴族」 「悪の華ー悪から華を創り出す」 ー 「すば

らしい春はその薫りをうしなった」 「われは傷にして短刀 犠牲者にして処刑者なり」 

後世の批評家の誰もが、あの悪と悲観はウソだと言っている。しかし正官の身体は悪に最も敏で、「ノモンハンを書くと死んでしまう」壊

れやすい時代のセンサーである。詩集「悪の華」にも何の悪の感情も、伝わつてくるものはない。悪とされる言葉があるだけだ。日本語

訳では判らぬ、類似を利用した形式とロジックがあり、そこで格闘しているのであろう。

正官の場合には、偽善ではなく、「偽悪家」が出現する。( 食神) ランボーはこの路線に楽天で飛び乗ったのである。


 『正官 北村太郎』ー「朝の水が一滴 ほそい剃刀の刃のうえに光って落ちる それが一生というものか不思議だ・・・(朝の鏡1966)」


 『正官 鈴木志郎康 』−「・・森の火事だ 興奮せよ 女便所奴 処女の股座は平和なので鳥が遊んでいる・・・私は背後から処女膜

に犯され 身動きならず 男子便所の中で平和を愛する正午の男となって終わった (私小説的処女キキの得意なお遊び1967)」


 『正官  レヴィナス 』ー「全体性と無限」「存在するとは別のしかたで」ー( 偏官) ハイデガーの次を行く、( 印綬)フッサール現象学の徒

である。雑念を去って自己内面の確信基底を探ると、ハイデガーでは情状性「死の恐怖」が現れる。レヴィナスでは「無限である他者」

と、そこからの「自由の中の責任」が現れる。

最も身近な外側世界「他者」は「他者の他者性」「外部」「異邦性」「無限性」と言う、窺い知れぬ非知にある。

しかしこの非知に橋を架ける、全体性たる自我の「責任」とは。その意味、信の在り様を内面に探る。 「私には他者を殺す事が出来な

いという倫理的不可能性のうちに、他者の例外的現前が書き込まれている」 「他者はさまざまな権力の終わりを告げている」 「顔の

現前は世界のかなたから到来しながら、私を兄弟関係にまきこむ」 「私は他者が死ぬ事について有罪である」 「責めについては、だ

れも私のかわりになることがない」 「逃げ隠れが出来ないということが、私であるということだ」

存在論の言語で、そして後期は倫理の言語で、レヴィナスは知的に自己内面の世界観を表出する。

「無限」がココにあるのに明確な通路がない。提示された世界観は、奇しくもそれが現代の「対自的道徳書」になっている。

パスカルの「心情論理」、ショウペン・ハゥアーの「同情ー共苦」と言う最大の難所を、自分の中に生涯尋ね歩いたのである。「神( 他者

)に実証されるように生きる」を本願に 。                                                 


 『正官 ポール・リクール 』ー「人の苦しみは、それを見た人に義務を負わせる」 ー (正財)デカルトの「我 思う」の「我」を求めても、

「自己が直接自己を知る」事は不可である。

「自己が外化した鏡に照らして、自己を反省的に理解する方法(反省哲学)」は、聖書解釈学に向かう。

「象徴を聖の顕現」と見なし、無限に解釈を生み「絶対についての証言」「限界経験世界の開示」「意味の満ち溢れる」聖書解釈の中に

、鏡に映る自己を見る。

「自己を定立させる事が反省である」「反省が発生する原初の状況が忘却だと言う事だ」「私は私であるものを最初は所有していない」

・・・・・フッサール現象学がフランス「存在論」を経由しての、一つの着地点である。


  『正官 F・ブレンターノ』ー「道徳的認識の源泉について」「経験の観点から見た心理学」ー「最も善い最終目的を求める意志と行為

は、そうではない意志や行為よりも優れており、その行為を命じる規則は正当性をもつ」「最高善を追求する行為は正しく、その行為を

指示する法、道徳は普遍的正当性を持つ」 ー( 印綬) フッサールの師
で、( 印綬) ヘルダーの精神を継承しドイツ各地の民謡を集め

後期 ロマン派代表詩人( 正官) C・ブレンターノの甥。

フッサールはF・
ブレンターノとの出会いによつて、「数学」から「哲学」への転向を決意し、ブレンターノ哲学から「ブレンターノ時間論の

批判」等の拡大を経て、時代の精神に当てて自説を構築するのである。人格的な事柄「講義でのユーモアの欠如」「学生への父親の

ような愛情」「同意と忠実への希求」「孤立した独立性」の面において、この師弟は似ていたと近親者は記す。


 『正官 ラッセル 』ー「ラッセルのパラドクス( 偏財カントールの無限集合の矛盾) 」−論理的なものと実際的なものをタイプ階型で分析

する「論理学基礎論」、哲学命題を数学論理学で問うてゆく。−「究極の特殊者は感覚与件である」

以上は私にカントの精神に見えるのだが、ラッセルは経験論者という事になっている。

「カントを読んで気持ちが悪くなった」「この小さな遊星の上を這いまわる小動物しか本気で考えない哲学者の微視的視野」

膨大な著作を本人再読しない為の、相反する結論も多々あるとの事。時間のゆとりの無い、一般性の舞台に乗せられた平和運動家を

( 印綬)
福田恆存は「天使の衣の中に滑り込んだ利己心、優越、権力が愛や寛容の、美徳の中に隠れる」とまで言う。誤解である。

「微視的視野の人」なのである。ナゼ経験論と言われるかは、「科学の哲学的理由付け」を目的とし、哲学知識を分析する方法を採っ

たから。ラッセルの哲学に自らの世界観は映されない。

「私は若い時期哲学において宗教的満足を見出そうと期待した。私がヘーゲルを捨てた後でさえプラトンのイデア世界が私の崇める非

人間的或るものとなった。私は崇敬の念をもって数学を考えた」 「人間の生活の外にあって畏敬に値すると思われる、ある種のものが

引き起こす、感情の理由付けを探した。それは星空であり、科学の示す宇宙の広大さであり、また単に偶然に存在する世界を記述する

にとどまらぬ、数学のような非人間的真理の体系である」 「人間より偉大なものを何も認めないヒューマニズムを、宗教の代りにしよう

と試みる人は、私の感情を満足させない。しかも私は今知られている世界において、人類以外に尊重しうるものがあるとは信じえない

。かくて感情はそれに逆らうにもかかわらず、私の知性はヒューマニストと行動をともにするのである」

駄目押しに「私の哲学の発展 1859」の奥付け解説を引くー「ラッセルの哲学者としての公の経歴は、簡単に大まかに『カントからカン

トヘ』として要約できる。1897年『幾何学の基礎』において、彼は自らの見地が『 カントの古典的議論の或る制限と解釈とによって得ら

れる』と書いた。そして1948年『 人間の知識』において、ふたたびカントに似た観念と用語とに立ち戻る。その先験的総合の原理を、カ

ント程主観的でないと言う事を好んだ」 「彼は『数学原理』の体系に全く満足したわけではなかった。そしてヴィトゲンシュタインはあら

ゆる場合に、数学知識はトートロジーにすぎぬことを彼に信ぜしめた。或いは殆ど信ぜしめたのである」

数学原理を共著したのは( 傷官) ホワイトヘッドであるし、ヴィトゲンシュタインは「偏官」である。最悪の相性であり、( 正官 ) ラッセルは

嵐の中の木の葉、という状態である。

「死の恐怖を克服する最もよい方法は、諸君の関心を次第に広汎かつ非個人的にしてゆく事・・・・他人が私ではもはや出来ない事をや

りつつあるのを知り、私の方は可能な限りの事はやったという考えに満足し、そして仕事をしながら死にたいものだ」

カントの分身とは、カントの精神と言う事である。「精神」はそれのみでは生きられない。

経験世界( 時間空間域 ) に要請されて個体と伴に生きるのである。


 『正官 オルテガ 』 ー「大衆の反逆( 生の理性) 」ー歴史、文化、社会にカント分身が向かう。「純粋理性は生きた理性にその席を譲

らねばならない」「生の理性の中に純粋理性は位置づけられ、可動性と自己変化の力を獲得する」反逆する大衆は否定されるべきもの

となる。私は一方からは判るが、もう一方の方があって、そちらが満足されない・・・ナニか。

「自分がみんなと同じであることに何らの苦痛もおぼえず、逆に同じである事に喜びを感じる人間」「優れた人間とは自分自身に多くを

課す者の事であり、凡俗な人間とは自分自身に何も課さず、現在あるがままのもので満足し、自分自身に陶酔している」 「自分自身

となるための闘いのなさ、真理をあざけり、生の高みに上る人の足を引っ張る・・その様な大衆」 「この大衆は上流階級にも、下層階級

にもいるのである」大衆化の時代に理性をもとめる哲学である。オルテガは「生きた理性」こそを「観念」と呼ぶ。

一方の満足されない方を云う。タイプ階型のギャップ、視野の狭さ、「観念」が嵐の中に裸で投げ出されている。

これだと簡単に一般性の舞台に乗せられて、権力が付与され、無自覚な正義の権力者が出来上がる。

「みんなに当て嵌まるのに、自分には当て嵌まらないと言う事が、みなに起こる」がここにある。

「精神が今存在し始めたかのように、ものが永遠の相のもとで初めて認識されるような( スピノザ) 」その場所、単独個人の内面奥「対

自」を通してのみ「理念」はイデアと繋がるのである。理念は経験世界、時間空間から切れている。

「対自」である時、無限はあることは判っているのに、イメージ思考で追いきれず、理性の極限でによって要請される。

私には直接本人と会すれば、これが云えずに敬するのみと言う事もわかっている。


 『正官  レヴィー・ストロース 山口昌男 』 文化人類学における構造主義とは、未開の習慣データーを分析帰納してゆくと、個々人

には知られざる全体システムが発見される、とするものが私流の解釈である。レヴィー・ストロースは「近親婚のタブー」のデーターから

「母方の叔父」を境界の目安とした「合理的な女性の分配」が、山口昌男での「非定住民」からは「王権の補完機能」をもった「中心と周

辺の概念」が現われた、が何故か驚きが無い。分析する労苦の割に結論に満足されないものがある。

レヴィー・ストロースは言う「私の著作は私の知らぬ間に、私の中で考え出されているのです。私は以前から現在に至るまで自分の人

格的アイデンティーの実感をもったことがありません。私達の各自が物事のおこる交差点のようなものです。交差点とはまったく受身な

もので何かがそこでおこるだけです」修道士のように早朝から細部の意味が、自らを解き明かすのにまかせて作業する20年とある。

帰納の途中での結論予想、帰納と小規模な仮説演繹との付き合わせ、弁証の思考が無いと言っている。

ラッセルの著作が膨大で、そして結論が矛盾するのもコレである。私達は結論ではなく、データー処理分析する実直性と「知り得ぬ他

力」全体を見るべきなのである。


 『正官 宮本常一』ー「正財の実証する柳田民俗学に対峙する、正官の実証される小さき者の宮本民俗学」ー「土佐源氏ー驚くべき

馬喰の性遍歴」「塩の道ー長野岐阜の山間部での塩獲得ドラマ」「西日本では生活文化を村が記憶し、東日本では家が記憶する」

「とろかすような笑顔」と謙虚さで農山漁村離島の人々と対話し、村人は「生活の意義」を示唆されて終生彼を忘れない。

「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河をこの人ほどたしかな目で見た人は少ないと

思います。(正官 司馬遼太郎)」


  『正官  アダム・スミス』ー「国富論」ー資本主義経済世界の勤勉な職人や、小企業家達の利潤追求という欲望は、自由市場に伸

びる「神の見えざる手」に拠って経済秩序が保たれる。

分析帰納する苦労の末の結論に、非知が含まれる。スミスの最初の著作は「道徳感情論」というもので、市民の利己心を「他者との同

感による自己規制」によって説明するものである、とある。


 『正官 中江兆民』ー「人は自省の能が有るので、己が為したる事の正か不正かを自知するのである」 「道徳は、正不正の意象と此

自知の能とを基址として建立されたるもので有る、ただに主観的のみならず、客観的に於ても、即ち吾人の独り極めで無く、世人の目

にも正不正の別が育て、而してまたこの自省の一能が有る為に、正不正の判断が公論と成る事を得て、ここに以って道徳の根底が樹

立するのである」 


 『正官 秋山真之』を『正官 司馬遼太郎』は自著「坂の上の雲」のなかで、向こう側から掴まれたと書く。

「六割が運で、あとの四割も運」 「天佑の連続」で日本海海戦は勝たされた・・・・・「本日 天気晴朗ナレドモ 波高シ」

以後外側を求めて、宗教を渡り歩き、息子を僧とさせて本願を達す。

   「神明は満足して治安に安ずるものより、栄光を奪う」 「勝って兜の緒を締めよ」


正官の主たる相性を云う。

     正官は傷官の凡庸嫌悪によって破壊される。

     正官は正財の客観志向によって傷官被害を無効果する。

     正官は偏官の感情論理によって精神の分裂を被むる。

     正官は印綬によって啓蒙をうける。

     正官は有情を以って劫財を制す。

     とくに正財及び劫財のリストとの付き合わせによって、「ああソウカ」が現れる。


以下は採取した人物の記載漏れを書付け、本項を終わる。


  『正官 シュトルム』ー「白馬の騎士」規則正しい生活と市民コーラス「・・たとえどのようなものになるにしても  仕事を恐れず 気を

くばるがよい  しかしお前の魂を 立身出世からは守りぬくことだ・・・」 が( 印綬) トーマス・マンの人生訓とさせた、ドイツ国民作家。


 『正官 ルカーチ』ー「歴史と階級意識」ー 「労働者は自分自身を商品として意識する時のみ、自分の社会的存在を意識する事がで

きる」ということは、主観的労働の「善」が客観合理社会の「金換算」と矛盾し、それは主観と客観の矛盾と同じと言う事である。

その事を「物象化( 労働が物扱いされる)」は主観の側との関係で、認識原理、実践原理、芸術原理の三領域でアンチノミー( 二律背反

)に陥る、と言う形に演繹分析したのである。カントの分身である。労苦の割に実り少なく、しかも結果は「自由意志」にしか出口はなく、

正統マルクス主義の権威( 物象化) も無化するものである。単純素朴に云えば「社会主義革命は仕事を通じて善が育つ様な体制を自

由意志する」が妥当であり、「矛盾は主観が客観( 歴史の必然) に見誤られている」がルカーチの禁句だったのだ。


 『正官 一茶』ー「月花や 四十九年の むだ歩き」 「不耕の遊民としての自虐」「他力の人」「只の非凡」と( 印綬) 藤沢周平評す。


 『正官 金子光晴』ーボードレール 「悪の華」の翻訳と傾倒ー「そのいきの臭えこと くちからむんと蒸れる そのせなかがぬれて 

はか穴のふちのやうに ぬらぬらしていること 虚無をおぼえるほどいやらしい   おお  憂愁よ・・・・・・・(おっとせい1937)」


 『正官 渡辺えり子』ー( 印綬) 斎藤茂吉を敬愛する姿と、「見ようとしないものは見えない」とする読書感想文を想いだす。

「私はヒトラーの秘書だつた( トラウデル・ユンゲ著)」の誰をも魅了した( 食神)ヒトラーがどれ程女性に優しく、知的で紳士然とした正義

の人か、愛犬と一人の女性そしてオペラを愛する事、・・・それらはスベテ「像的イメージ思考」だと言っているのである。

真の表題は「理性に拠って見ようとしないものは見えない」なのである。


 『正官 サント・ブーヴ』ー「教科書的記述の古典主義的批評家」「古典とはソノ所を得ている、と感じられるような文学の謂いである」

「義務と幸福な折れ合いであり、礼節である」


 『正官 ラ・ホンテーヌ』 ー「中庸のモラルで偽りない素直、自然、良識の 17世紀詩人」


 『正官 ヴォルテール』 ー「寛容とは何か、それは人間の特性である」18世紀啓蒙 ( 光明 ) 思想家


 『正官 セザンヌ』ー「すべての物体は円と円筒形からなっている」ー分析する実直性で外界自然を描 く、が知り得ぬ「物自体」。

「要素のほうから最後に輪郭が現われる」ように描くセザンヌには、デッサン( 素描 ) という全体形が最初から無く、最後にやってくる。

「私は自分が誰であるか知らない。自然をみるのは、支離滅裂でない、論理的なヴィジョンによってだ」

「サント・ヴィクトワール山」は何度か描かれる。「描かされるように結論は他力」で修行僧のように描くしか、方法の無い絵なのである。

美しいからと言って、感情感覚表現として見るべき絵ではない「理性がイデアを祈る」絵なのである。


 『正官 ミケランジェロ』ー( 劫財) ダヴィンチの全体的理想調和の世界に、確たる個体の理想美を対置する。モナリザの「微笑」には、

肉体からの知を帰納する方法「理性の肉体」ダビデ像が対峙し、それは倫理を含んでいる。


 『正官 シュライエル・マハー』ー「宗教の本質を理性では届かぬ、絶対依存感情としたドイツ初期ロマン派哲学者」ー絶対依存の感

情とは、パスカルの「心情」であり、下から帰納の果てに仰ぎ見る「他力」である。絶対の観念から演繹する正財ロマン主義とのちがい

である。


 『正官 メーテル・リンク』ー「青い鳥」ー「私は広い月の光の中にも、のぼる朝日の中、灯るランプの中、魂の立派な考えの中にいる」


 『正官  ユル・ブリンナー』ー実直歩行・・・『正官 ヘンリー・ホンダ』ー実直歩行・・・・・・スタ。


 『正官  古田敦也  高木大成  今岡誠 松中信彦  真中満』 ― 労働組合 日本プロ野球選手会「良識正道」のメンバー。


 『正官 大西祝』 ー「良心起源論 1864」ー良心の目的論的進化論ー「良心とは無条件に善をなせという自分が自分に負わせる強迫

である」 カントの批判哲学と( 劫財) アーノルドの批評精神を組み合わせての、「批評主義」を標榜す。


 『正官  山岡鉄舟』ー「無我無私の忠胆なる人」( 劫財) 西郷隆盛評、に談判して江戸無血開城・・・「腹痛や 苦しきなかに 明けが

らす」胃病にて死す。( 偏印) 清水の次郎長を弟子とす。


 『正官 アンドレ・ブルトンー「シュルリアリスム宣言」 同マックス・エルンストー「フロタージュ」 同アンドレ・マッソンー「オートマチ

スム」 』二つの大戦の間の「対他」の自意識ではなかったのである。


 『正官 マザー・テレサ』ー「業をなすのは主であって私ではありません。だから私は心配しないのです。もしこの仕事が私の仕事なら

、私が死ぬと同時に私の仕事も死ぬでしよう。主の業であるからこそいつまでも続けられ、多くの成果をあげるであろうことが、私には

わかっています」  


  『正官 堀辰雄 』ー「風立ちぬ」−「我々の人生なんぞというものは 要素的には実はこれだけなのだ」


  『正官 西条八十』 ー 「若くあかるい歌声に 雪崩も消える花も咲く 青い山脈雪割桜 空の果て 今日も我等の夢を呼ぶ・・・」

ボードレールからランボー、ヴァレリーまでフランス象徴詩の翻訳紹介者。


 『正官 小川徹 』ー「月刊 映画芸術」ー( 印綬 ) 蓮実
重彦のデリダ差延法を用いた批評文があつた。ポルノ台本が追うごとに増し、

経営難と老母の世話の二重苦が記されていた 「映画は観客の解釈によってはじめて意味の生じるもので、それ自体は不完全芸術で

ある」ー「現代映画論体系 全6巻」著


 『正官 鈴木志郎康』−「わたしは自分が都市大衆の一人であることを自覚する。この自覚を徹底して自覚し直していく。それが、今

まで自分が詩を 書くことで辿ってきた道だし、これからも辿る道。都市大衆の一人として生きているということは、地縁的にも血縁的の

も 、更に家庭でも職場で、友人関係にあっても、有りと有らゆるところで空間的にはごく近くにいながら、互いに孤絶して生きていると

いうこと。その孤絶のあり方を絶えず自覚し直していなければ、生き
ていけなくなる。(詩の包括的シフト1997)


  『正官 伊達政宗』ー「 曇りなき 心の月をさきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く 」


 『正官 中村哲』 ー 「アフガンの井戸、用水路建設する難民治療医」− 「250円の薬が買えずにバタバタと死んでゆく」「一発の銃弾

は8円でこれで殺人ができる」 専門の神経内科から、「生存の最低保障」の為に内科そして外科、農業土木に携わる。








        「 天は 穹盧( グル) に似て 四野を籠蓋( ロウガイ) す 天は蒼々野は花々 風吹き草低く 牛羊を見る 」


                                                    『正官 司馬遼太郎』














                                        (参考)宮本常一 宮本常一データベース