[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック



印綬
 いん  じゅ

 そう    ごう     しゅ     ぎ
シンシシスト
(白部は主体を示す)
主 客 標 示
標語 「学問宗教」「自己本分」「多智求道」「慈悲穏和」

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13

総 合 主 義
  印綬人名リスト

ガリレオ・ガリレイ    ディトロ    ヘルダー   フッサール    エマソン   ゴッホ   カフカ   クレッチマー  ヘミングウェイ

カール大帝    フイリッポ・マリネッティ   トーマス・マン  シェストフ   ウイリアム・モリス   リスト   トロッキー  クロポトキン

デュ・ベレー   ボシュエ    ベール   ゴーゴリー  ラ・ブリュイエール    コルネイユ   ロッシーニ    クールベー   ゴーギャン

ケネー  ラファイエット   アルノー   ラ・マルチーヌ   マルサス    ロバート・オーウェン   バーナード・ショー  ソレル  ルナン

メンデルスゾーン  アンデルセン  クロード・モネ   ラスキ   ジョージハーバト・ミード   ガルシア・ロルカ  ターナー   コロー

ホイットマン   ムンク   ジョンデューイ   チェルヌイ・シェーフスキー   フローベル  ジロドゥー  エディツト・ピアフ   セリーヌ 

エリアーデ  ジル・ドゥルーズ  ル・クレジオ   ブリュン・チェール   ポアンカレ   バッファロー・ビル  エメリンパンク・ハースト

ローレンツ  
ヘンリー・ホード  セルマラーゲルレーヴ  アビバールブルク  ジェーン・アダムス ポール・エリュアール  シジウィツク

アルノルト・シエーンベルク    マルタン・デュガール   モーガン・フォースター   ロナルド・フィツシャー  ヴァルター・ベンヤミン 

ココ・シャネル   クリスチャン・ディオール   ウィリアム・フォーサイス   ダシール・ハメット    イレーヌ・キューリー    マズロー

ドミトリー・ショー スタコビッチ ジョージ・ガモフ  ジヨー・イマジオ  ハロルド・ラスキ  ジョージ・マーシャル  ジャン・デュビッフエ

ルイセンコ   リリアン・ヘルマン   ハンク・ウィリアム   ジェイムス・ワトソン   ウィリアム・ショクレー  マルタン・デュ・ガール

ウラジーミル・ナボコフ  ヴィドケント・レンツ  スーザン・ソンタグ  トルーマン・カポーティ  ミヒャエル・エンゲ  イサベル・ペロン

ムンイック・ワン   ソモサ・ガルシァ  マルコム X   エーリッヒ・ホーネッカー   モーガン・フリーマン  ノーマン・シュワルツコフ 

ナディンゴーディス  ロバート・ウォラー  ジヨージ・ガーシュイン  マンデラ    リユール・トールキン  シュミット  パーレビ国王

シュルツ   ジャック・ペロー   メジャー   クリントン大統領   アベベ  ロベルト・カルロス    マラドーナ   ビル・エバンス

ピーター・オツール      オマー・シエリフ     スティービー・ワンダー    ブリジット・バルドー   クラーク・ゲーブル    プレスリー

ジェイムス・コバーン     フランコ・ネロ     ウイリアム・ホールディン    ジャン・ルイ・トランティニアン   ロバート・ミッチャム  

デーン・マーティン    ピーター・ホーク    ミッキー・マントル   
ピーター・フランクル   リンダ・ダーネル   ホリー・ハンター

エディマーフィ  シルバー・ナマンガー  キャメロン・ディアス  レスリー・ニールセン  リチャード・ドレイファス  ポール・ニューマン

ダンエイ・クロイド    ジョン・ペイン    グレゴリー・ハインズ    イーサン・ホーク    カート・ラッセル    マイケル・ランドン

ミシェル・モルガン   マリア・シェレ   ナンシー・アレン  ジュディ・ガーランド   キャサリン・ヘップバーン   レイフ・ファインズ

リチャード・チェンバレン  ブラッド・ピット  ビクター・マチュア  ズビグニエフ・チブルスキー  ジエフゴールド・ブラム  カール大帝

クリスチャン・スレーター   ウオーレン・ベイティー   ウェズリー・スナイプス    ウィリアム・シャトナー    シュワルツネッガー

エドワード・ノートン  マイケル・ダグラス  スヘザン・ヘイワード  キャリー・フイッシャー  ロバート・ワグナー  リチャード・ギア  

ルイス・ゴセットジュニァー  モーガン・フリーマン トム・スケリット  ジョン・ローン  ジェイムス・アール・ジョンズ  ピヨーピルー一世

キーファー・サザーランド   ウイリァム・アサートン   ロス女史  マレー・ゲルマン  ビウス一世  メッテルニヒ  アヴェナリウス

リオタール  ハルトマン  リチャード・ローティ  マイケル・ムーア

李登輝   西周     竹田青嗣      加藤典洋     蓮実重彦    北原白秋    石川啄木   田中正造     太宰治     魯迅

北村サヨ  荒畑寒村  田岡満  稲盛和夫  壷井栄  内村鑑三  織田信長   原敬   国木田独歩  吉本せい  大杉栄

佐藤信淵  浅沼稲次郎  海江田万里  正力松太郎  山花貞夫  荒船清十郎  大出俊  今西錦司  中山晋平  阿部次郎

福田恆存  丸山圭三郎   永六輔  片岡孝夫  佐藤愛子  小中陽太郎  瀬戸内寂聴  鮎川信夫  清岡卓行  田辺聖子

小栗康平  上田紀行  石川好  佐藤信 上野千鶴子  藤原新也  三浦知良  加藤泰  長谷川竜生  林達夫  つげ義春

山本佳人   加藤芳郎   赤塚不二夫   椎名誠  石井ふく子  笠井潔  三浦雅士  藤沢周平  米沢邦雄  栗本慎一郎

竹中直人   岡本太郎   木下恵介   小山内宏   山田詠美  中谷彰宏  筑紫哲也  落合恵子  福地泡介  小室直樹

秋山ちえ子   山下清   つかこうへい  やまだ紫   井伏鱒二   団伊玖磨  新井満  中村紘子  日野皓正  田中直毅

山本七平   辻村ジュサブロー   服部幸まさ   長田弘   尾上松之介   中村梅之介   左卜全  いずみたく  一柳慧

小野田寛郎   桜井洋子  田丸美寿  佐藤陽子  服部道子  森田芳光  吉村作治  はかま満緒  横山ノック  柳宗悦

大国隆正   白河天皇   長塚節   石田梅巌  広瀬和郎  関本忠弘  岸田劉生  斎藤茂吉  阿南惟幾  平塚らいてふ

三木露風  小林陽太郎  渡辺恒雄  北大路魯山人  中島誠之助  朝岡聡  土井晩翠  緒方貞子  坪内寿夫  徳間康快

佐々淳行   藤沢秀行   丸田良昭  西太后  孫文  市河三喜  野口英世  高群逸枝  土本典昭  佐橋滋  桑原史成

古賀誠   永田武   東由多加   野村修   山根基世   川村二郎   小沢遼子  飯田蛇笏  江藤新平   額田福志郎

九条武子  桂太郎  荒木貞夫  石原伸輝  畑恵  草間彌生  金子直吉  樋口一葉  織田作之助   杉本清  井上有一

夏目房之介   青山祐子   金大中夫人  内多勝康   6代目尾上菊五郎   遠藤実   有働由美子  田中角栄  周恩来

児玉誉士夫   永山則夫  東条英機  鳩山由紀夫  伊藤素子  新実智光  都沢和子  津川雅彦  都はるみ  森高千里

北原三枝   浅野ユウコ  中森明菜  松田聖子  倍賞千恵子  泉ピン子  雪村いずみ  斎藤慶子  白川和子  大原麗子

九十九一   岸ユキ   香坂みゆき   鰐淵晴子   京唄子  薬師丸ひろ子  草笛光子  中原早苗  常盤貴子  水沢あき

梓みちよ   秋野よう子   司葉子   笠置シズ子   北村サヨ   乙羽信子   杉葉子  矢部浩之  レッゴー三匹正ちゃん

玉置浩二   田村高広   田村亮   郷ひろみ   千葉真一  川谷拓二  三林京子  飯島愛  鶴光  羽賀健二  平三平

沖雅也   フランキー堺   高田浩吉   浜田光夫  坂本龍一  水原弘  さだまさし  小室等  桑名正博  山本コウタロー

中原誠   マイク真木   小田和正   上田正樹  村田英雄  松山千春  内山田ひろし  柳生博  川崎敬三  小沢栄太郎

高田純次   石橋正次   原田芳雄   近藤正臣   中条きよし  ケーキ屋ケン  中本工事  植村直巳  陣内孝則  白竜

砂崎秀夫   東山紀之   坂下千里子   松浦亜矢   小池栄子   磯野貴理子   橋幸夫   極楽トンボ加藤   恵俊彰

ココリコ田中   山口もえ   清水よし子   藤吉久美子   葉月里緒菜  久本雅美  布川敏和  村上ショージ  今村ねずみ

うじきつよし   石井ふく子   二代目染五郎   桑野信義   田中裕二   亀和田武   松嶋菜々子   嘉門達夫   おさる

春風亭昇太   つまみ枝豆   藤真理子   デーブ・スペクター   西岡徳馬   渡辺正行  朝丘雪路  東てるみ  石田えり

大原かおり   見城美枝子   香西かおり   後藤久美子   財前直美   田村英理子   中島啓江  永島暎子  肥後克広

松田美由紀   中島知子   石井正則  イチロー  東尾監督  ロッテ・有籐  別所解説  原辰徳  中日・田尾  中日・中尾

星野仙一  巨人・加藤  中日・牛島   新浦壽夫  ジャイアント馬場  野茂英雄  阪神・亀山  アベベ  王貞治  倉本晶弘

広島・ロペス   ロベルト・カルロス   高井雄平   田口壮   星野伸之   工藤雪枝   小林幹英   阪神・遠山  和田豊

大友進   野口寿浩   川上隆也   山本樹   横浜・川村  阪神・カツノリ  鈴木郁洋  山崎武司  池山隆寛  武上四郎

大野豊   佐々岡真司   仁志敏久  二岡智宏  モリマン・もり夫  天田俊明  テレサ・テン  秋谷豊  粒来哲蔵  桂信子

山崎方代   六平直政   三代目円歌   栃東  小雪   押井守  金子昇  北勝力 飯星景子   ナンシー梅木  マギー・審司

アンガールズ山根良顕  笑い飯・中西  アメリカザリガニ・平井  水口栄二  松浦亜弥  



    印綬考察  

印綬性情の標語は「学問宗教」「自己本分」「多智求道」「慈悲穏和」である。

気の配置は、生日自我は外界世界の気に対して五行循環に拠って生成され、外界は流れ込む。二つの気の陰陽は異極であり、整理

言語身体による理念に向けての統合思考を自らの本来性とする。

左上図の主客標示はそれを示す。中心白部自我に生成すると云う、馴染の関係で網部外界世界が流れ込む。自我は流入し集積する

外界全体をイメージ実存思考に加えて、本来性を持つ整理言語思考に拠って系統し、内面化しながら世界を拡大させる。

図の網目マークは不明確な隔絶、馴染の関係を示し、客体は自我に対して系統あるものとして接触し、自我もまた系統あるものとして

の自覚が強いと云う事になる。

気の配置を同じくする偏印はアナロジーで似たものの急所を直観で掴んでまとめ、そして概念化統合する。しかし偏印の主客陰陽を同

極とする感覚感情イメージ思考は、太い系統樹はつくらず出会いの世界の相対的価値に生きる。

印綬は経験世界に理念を「合成」して太い系統樹によって世界統合を図る。帰納と演繹が繰り返される。

相対価値のなかに直観で現われる「理想タイプ」、極限概念を捨てきれずに状況をさがし、思考を組むといって良い。

世界が「身辺」「他者」「集団」「社会」「国家」「自然」と空間域を広げる程に、「理想主義者」となって内面世界を分裂から保守するので

ある。感覚感情と整理言語の結節、小さき者として「理念イデア」に繋がる系統世界を仰ぎ見る、が印綬の自我の配置である。

「学問宗教」世界に生きればこの事は比較的可能である。

しかし「みなに当て嵌まるのに自分には当て嵌まらない事が、みなに起こる一般性の言説域(個と全体の矛盾)」である、「社会」「国家

」の領域では苦戦と苦悩が簡単に予想できる。喩えて、童話の世界はこの領域も簡単にイデア、理想化出来る。童話の世界観でこの

世を生きるのは甚だ困難である。「自己本分」と「求道」で系統自我を守るのである。

また「客体の勝るタイプは自由よりも平等の理念に感応する」の仮説に拠り、印綬はヒユーマニズムの二義の内、「人間主義」ではなく

、「人道主義」に生きると言ってよい。しかも理念型の正官、劫財と同じく真性「人道主義」者として、生きるのである。

  哲学思想の分野に、この主客の形を当ててみる。


 『印綬 ガリレオ・ガリレイ』 ー「星界の報告」「天文対話」「新科学対話」「偽金鑑識官」ー「振り子の等時性」「落体の法則ー物体の

落下距離は時間の2乗に比例する」「物体の落下は地球の運動と落下運動の合成であるーガリレオの相対性原理」「木星の衛星、太

陽の黒点の発見」 宗教裁判で幽閉、1642 年 1月 8日 二人の弟子が科学の討論をしているのを聞きながら死亡

「哲学は宇宙という大書物に書かれており、それを見ようとする人にはいつも開かれている。とはいっても、この本は、その言葉を理解

し、それを記す文字を読むことを学ばないかぎり、理解することはできない。この書物は数学という言葉で書かれており、その文字は三

角形や円などの幾何学的な図形である。これらの文字が読めなければ、この書物は一言もわからない。これがなければ人は暗い迷宮

の中をさまようほかはない」


 『印綬 フッサール』 ー「現象学的還元」とは意識から外側世界の「信」を、順序立てて問う際に「本質」よりも、「現象」のままに問う

事で「対自」主観からの世界系統を厳密とする方法である。

例えて、「真の友情とは」との問いを「真の友情とはと問う意識のあり方(現象) は」と問う事で、さらにその前提の世界確信の中心側の

問いに置き直す。「人と通じている確信」は「勝ち負けのない時に感情と、理念レベルでの共有観」で現われ「感情レベルは時間がその

都度となり、理念レベルは長い時間に持ち耐える」となり、「真の友情は自己犠牲の度合いで計られる」類の一般客観言説の抽象過

程と異なるものとなって、幾度の問い直しにも耐えるものとなる。

一般言説は「張り紙」の域にあるから「真の友情は妄想である」にスグ反転する。対自からの系統が無い為である。

現象学は外側世界の客観普遍性を、内面の主観普遍性の「共通性」で転回するものである。

( 正官) カントの主観へのコペルニクス的転回と同様に、不信の客観言説を主観の側から「信憑性の度合い」によって洗い直す。

( 正官) カントとの違いは理性のみではなく感覚感情域との合成、( 偏官) 実存主義とは感性のみでなく理性理念域の合成を目指す事

であり、これが両者との好相性とくに偏官との極上の相性を生む事となる。

フッサールの「諸学問の生活世界への還元」の主旨は、いわゆる一般原理理念が自然科学の分野で大量に創出され、人文科学分野

がそれに追いつかない。日常生活の概念との結びつきが切れたそれらの原理を、生活域(実存)から洗い直すこと。

実存から理念に至る思考のあり方と、その哲学的方法を明確化する事である。

「エポケー判断停止( カッコ入れ) 」「本質直観( この本質はカッコ付き) 」「超越論的還元」も自己内面の現象を自己が知るという、徹底「

対自」の域がそれらを可能とさせる。カントの本質は非知であるが、フッサールの本質は「理念イデア」性にある。

エポケーとはお勉強のようには答えを出さず、そうある意識を知り、眺め、そしてそこからイデアへの結節を試みる。

「およそ我々に出会われうる様な、考えうる一切の諸対象、したがって一切の対象諸カテゴリーを伴った先所与的な実存的世界全部と

、同じくまた一切の理念的諸世界とを包含し、それらのものを超越論的な相関項として理解せしめる」内面全てであり、「純粋自我 =超

越論的自我」は「経験的自己」を含んで、それ自体を内省しうる「根拠」であるとする。

「本質は想像空想の仲間ではなく、むしろ感性知覚作用の仲間であり、理念的対象の存在妥当は物質存在と同じ構造によって、純粋

自我に当てて本質直観される」理念的対象の「信」は物質存在の「直感の信」と同じく、意識基底に「直観の信」として厳然と存在す。

「井の中の蛙が全外界世界を、自己内面の現象に見る」からこそ、その事は全蛙に共通するからこそ、長い道程であるが真の「客観に

いたる道」が開けるのである。しかも主観と客観の順路は「絶対」この配置になっている。「単独者」の条件である。

フッサールの精神史は「数の概念についてー心理学的分析」「算術の哲学」「純粋論理学序説」「現象学と認識論とのための諸研究」「

厳密な学としての哲学」「純粋現象学と現象学的哲学とのための諸理念」「内的時間意識の現象学」「ヨーロッパの諸学の危機と超越

論的現象学」という風に、数学から実存への道を辿っている。当初の数学の根拠付けの変更、心理域( 経験概念) から論理域( 生得観

念) への転換は、印綬の統合身体が両刀使いで両者に「信」を置く事に由来する。印綬は生命体モデル思考には成り切れない。

ともかく数学は幾何学という像を伴う思考以後の発展史で、それ固有のルール発展を遂げて「生活実存世界」から離れてゆく。

像を伴う思考の極は「シンボル」であるが、「真善美」の三価値の内の「善」が以後の数学思考で抜け落ちる。

「善」のイデア的直観は「倫理」「義」としてそれぞれ、正官偏官では要請されて掴まれる。

印綬の世界統合はこの「善」の理念を、整理の言語で地上に繋ぐ事で可能となる。

ソクラテス、仏陀、キリストは言い方を違えて「理性の限界」を説いて、生のテーマを「善」に振り向ける。

それは「全世界の統合」「全世界を本質を問わずに知ること」が「善」をテーマとする事と同義であり、これがこの世の終着点、「夜空に

見えているのに、外側からの視座を与えてくれない無限の謎」の了解と一致するハズであるからである。

無限に「真」「美」を追っても了解は得られず、「善」を追う事で達成されると説いている。

「井の中の蛙が、自己内面の善的現象を知る」と、その事は全蛙に共通するから、長い道程であるが「自他の境界」が開き、真の「外

側世界」が露呈するである。

これが私の宗教に対する「本質直観」であり、宗教とは字義通りの「内なる総合理念ー原理」のこととなる。


 『印綬 竹田青嗣』 ー「欲望エロスの現象学」ーフッサールから( 偏官) ハイデガーの信「死の不安」に迂回した現象学を、印綬の本

来性「理念」の信に引き戻す、時空を越えての学的正統の愛弟子。

「 欲望を肯定する場所から、社会理念に結節する道を示す事 」が最大のモチーフである。

フッサールの本意を受け取り、フッサールの数学的理念への「信」を強調するところに、「善」の理念への「信」を置く。

フッサールが学的状況に拠って成し得なかった、心底を図っての「同一理念による時空の飛び越え」である。

現象学とは「あらかじめ絶対的な真理( 主客一致) は知ることができず、ただその都度の場面で与えられた状況、条件、知り得ていた

事から、一つの判断や確信の、妥当性、不可避性を検証する事」として、「現代思想 ポストモダン思想」を「主客問題」をテコに裁断整

理する。「言語的思考へー脱構築と現象学」ではこれらの捻れた思考と、現代言語学の思考が当に同一のものである事を指し示す。

本願の欲望と善の結節は、「個人史の中で欲望が現実に接して逓減し、よい事への欲望過程にいたる現象」を論理化せんとする。

これを「自由」と「平等」の絶対矛盾と見て不可能を言う事は容易いが、「よい事の理に適ううれしさ」は頑として経験世界に在り、自己

欺瞞と対他偽善のない対自の「善」は、「悪」がその引き立て役としてのみ在るかのような、「快」と「理念への信」を人にもたらす。

そしてまた新たな「真」の発見と同じように、内外世界の色合いと意味をガラリと変える力をも持っている。経験を振り返るとそう見える。

「善」は善悪の貸借決算ではなく、無償で我身を外界世界に投げ出す「相互承認」への希求、自他統合への標識板となる。

「近代哲学再考 (2004)」て゛は「いったん現われると二度と後戻りしえない原理的知見」を、(劫財)ヘーゲルの「良心」に見て、これを

補足補強して提示する。永い時間に耐ええる「市民社会の原理」は、この道以外には無いという形で理が尽くされる。

ヘーゲルの良心とは「相互承認に向けて行動する対自の善」と、「普遍性に照らして前者を批評検証する善」の弁証、主客からの「相互

承認」過程である。


 『印綬  ロス女史 』 ー「死の瞬間シリーズ」 末期患者の「死への心理の 5段階」ー否認、怒り、取引、抑うつ、受容を報告する

末期医療への道を開く先駆的報告書。生命体モデル思考に「理念」を接木する。

「怒り」「恐怖」「憂鬱」の感情の階梯を完全に通過した人は、ここから利他「何かしてあげたい」「これだけは成し遂げたい」という「善」が

現われると説く。日本語出版の最後の著書では死期の近い子供の夢に、本人がその死を知らない知り合いが遭いにくる。

ロスさんの追跡調査で知り合いの死が判る例が、何例もあると言う。「不思議」はそのままに眺め、心に留めて置く事。

しかしなぜ人は生の最終テーマを「善」に振り向けるのか。

易経は善の極致を「万物すべての始まり」ー「元」に在ると説く。また「利」を万物みな宜しきを得ること、「義」の調和と説く。

理想のイデアは遠い・・・・・・・・経験世界に何を観るかにかかっている。


 『印綬 ジル・ドゥルーズ』 ー「差異と反復」ーポストモダン論者の中、(劫財)デリダが「差延」に拠って「現存の信」を否定する処、正

当哲学者のドゥルーズは( 傷官) ベルグソンを借りた「潜在生成する出来事」で「現存(感覚世界)の信」を否定する。

傷官の「ふるさと」は「絶え間ない流出」「持続の緊張」「生より以上の理念へのジャンプ」「立ち現れ」そして「単独性こそが普遍的」で

ある「絶対自我の真の客観」の世界である。印綬がこれをやると行動に身を任し、統合内省の切れたロマン主義者となる。

序文には「以前からなされているようにして哲学書を書く事が、ほとんど不可能な時代が近づいている」と書かれ、( 偏印) ガタリとの共

著では時間に耐え得ぬ「一般域の流行言語」を、像と理を合せるように統合する。「超越項なき友愛」はポッンと残される。

「差異と反復」は哲学史総体と、時代のニーチェ空間「傷官ふるさと」とを合成統合する書であったのである。

「傷官ふるさと」から見た哲学史総体を再度内省して、「バブルの思考」として位置付ければ、それが印綬の本来性「対自から統合」す

る本願の書となる筈であつた。70歳で自宅の窓から投身死去。


 『印綬 マズロー』 ー「欲求段階説」ー生理的欲求,安全の欲求,親和の欲求,自我の欲求,自己実現の欲求を説く。

従来の「動物の行動」「未成熟の人間」「病気の人間」からの心理学ではなく、「理念」を持つ人生の成功者の心理学である。

ポイントの「欲望と善」との結節点は、「自尊心と他者による尊敬」にある。

「他者による尊敬」の受け取り域に対他の「偽善」の印象を、外面を重視するアメリカの成功者と重ねてしまうが、「至高体験」「自己超

越」の欲求を言わずには居られぬ処に、その疑念が払拭される。マズロー自身の「ふるさと」の自己分析になっている。


 『印綬 阿部次郎』 ー「思想がほしい、人格がほしい、神がほしい」 「我に理想、信仰を与ふるものは自分自身」「自己の中に規範

を発見すること」 「自分はおそらくシンシシスト総合主義である。アレかコレかを発見する感覚は無くて、アレもコレもを喜び、それらを

並べその中に生きてゆく能力を持っているらしい」  

「人格は自らも充分に自己を把握し得ざる、内面活動の主体統一の原理」であり「理想を指導原理として思想と生活を律して行く主義

である」・・・・単独者の場所からの、印綬の心底告白である。


 『印綬 福田恆存』 ー「平和運動家には運動の拡大が念頭にあり、その問題解決には無関心である」「現実の世界にしか生きてい

ないものが口をきくと、逆に理想論をふりまわす」「社会正義は個人が、自らのエゴイズムを覆い隠すためのものではないのか」「真に

理想という観念を内に持って生きるものは、現地解決主義をとり一回一回それらの問題の処理をしようとする」ー昭和29年頃の政治と

文学の問題に対しての批判文である。理想という観念「理念」の「信」が言わせているのである。 


 『印綬 太宰治 』 ー「革命指導家先生おまえは押し売りである」「外で景気のいい理想を吹き威張り散していないか」「人に押し付け

る者はけっして自分ひとりをも革命できない人間である」ー「理念の信」からしか太宰治の謎は解けないのである。

( 偏財)奥野健男の「左翼運動からの脱落裏切りの罪悪感で、下降志向の文学に生きる他無かつた」とする心理主義「太宰治論」は違

っているし、加えてこの説を敷衍し「太宰の文学は運動に敗れての帰り道だった」とする、( 偏財) 吉本隆明「往還説」も違っている。


 『印綬 加藤典洋』 ー「内在思想が関係思想とぶつかるとイビツな思想となる。だからといって内在の方法を離れるべきではない。こ

れを否定せず、これに関係を付加し、そして関係の学に転轍する」ー「敗戦後論」「戦後的思考」「可能性としての戦後以後」で戦争責

任から無傷で被害者的立場のみの平和運動と、それと対立する戦争責任に無頓着で勝戦国への被害者的立場、その両者を叩く。

「まず自国の戦没者に対して頭を下げ、つぎに他国の戦争被害者に頭を下げる」そして「西欧からの借り物の民主主義こそ鍛えれば、

これがこれから民主化する多くの国々に対する普遍性を持つことになる」をこの方法で引き出し、提示する。

政治的場面においても「理念の信」を、駆け引きのない「心の素直」で全体統合するのである。

「欲望を肯定する場所から、社会理念に結節する道を示す事」のモチーフは、盟友竹田青嗣と伴に共有す。

内在の方法とは「その人物の身になって考える」事の徹底化である。そしてそれを言語明確化する事である。

「比喩の名人」の「井戸をどんどん掘ってゆく事によって外界に至る方法」の要点は、フッサールの現象学的還元の前段で、「感覚感情

身体」でのアナロジーの連結点を求めて、向こう側からの直観を待つ処にある。現象学的還元を実存世界全部に向けると言っても良い

のだが、本人の実体験と豊富な「人物の身になった」文学読書体験の積重ね、「感覚感情身体」がこれらを可能にするのである。


 『印綬  魯迅』 ー「狂人日記」「阿Q正伝」「奴隷が成り上がると、かっての主人と同じ事をする」 辛亥革命の期待が裏切られての

過酷な歴史を生きる。狂人の手記という着想は( 印綬) ゴーゴリーから得ている。日本語訳者は理念型(劫財)竹内好である。

農村社会ひいては全体社会のさまざまな、人間タイプの思考や行動の様式を象徴的手法で「馬鹿」「奴隷」「奴隷根性」のどうしょうも

無い世界を描く。人道主義の理想形を示すのではなく、醜態を描いて心根「対自」に発信するのである。

「われわれよりはじめて、後からくる人々を解放しよう、というだけのことである」 「生命を保存しなければならない、この生命を持続しな

ければならない、この生命を発展させなければならないということ」「生物はすべてそうしているのであって、父親もまたそうするのでる。

田舎の女が赤ん坊に乳をふくませているときには、自分がいま恩を施しているのだなどとは夢にも思いはしない」「聡明高尚で、つまり

より幸福であること、すなわち自己を乗り越え、過去を乗り越えたものであることを喜ぶ」「乗り越えるには改めなければならない。だか

ら子孫は祖先のやったことを改めるべきである」「覚醒した人は今後この転生の愛を、一層拡張し一層醇化して無我の愛で、自己を後

から生まれてくる新しい人の犠牲としなければならない」「まず第一には理解することである」「純潔高尚な道徳と新しい潮流を広く自由

に取り入れることのできる精神、威( おど) したり賺( すか) したりしたのでは、どうしたって『万年有道之長( 永遠に続くこと) 』ということ

は絶対にありえない」 自らの志を「無限」に置いている。これで内面に統合への道が開くのである。


 『印綬 フローベル』 ー「近代レアリスムの師」 友人の甥( 劫財) モーパッサンに作家修業を施す

フローベルの方法ー「主観をすて先入観をすてる」「広く事実を集めその総てに同等の重要性を置く」「できるだけ深い普遍性を発見する

」「美しい思想のためには美しい形式を」 ー 先入観をすてる( エポケー) はフッサールの「現象学的還元」の方法である。

「彼女は溜息でふくらむ白い首を仰向きにそらせ、気を失ったように泣きながら、そして身震いしながら顔を隠して男に身をまかせた」と

いうボヴァリー夫人の実存像へ言葉を結節する、その絶妙さ、イメージと言葉がブレないという事、男になって夫人の心底と繋がり最後

に二人を眺める視座に遠のく短い文章。このリアリスムは科学的でも客観主義でもなく、内面を観る「本質直観」の方法なのである。

「『ブヴァールとペキュシユ』の文章のあの区切り 括弧の中の嵌没性 そして人を笑わせない喜劇性と彼が呼んだもの 全くアヴァン

ギャルド的カテゴリーがある フローベル的方法は生きている 一瞬一瞬に私の内部に浸透してくるー( 傷官) ロマン・バルト」

「フローベルは主客の神話を廃棄しようとしたー( 印綬) 蓮実重彦」


 『印綬  ルナン』 ー「イエス伝」 フローベルと時代と創作基盤を同じくした、フランス実証主義の宗教史家ーイエスの言葉を自己内

面に問うような誠実さで、人間イエスを道徳と理想の伝道者「比類なき人間」として描く。

他に「哲学対話」 「科学の将来」 「少年、青年時代の思い出」等の著作あり。( 劫財)コントが敷いた実証主義の道である。


 『印綬 ゴーゴリー 』 ー「ロシア・リアリズム文学の父」ー「死んだ農奴を売ってもらいたいー死せる魂」「狂人日記」

「論争には耳を傾けよ だが 論争の仲間入りをするな」 「たとえいかなる些細な言葉の中にも 怒りや激情を吹き込む事を警戒せよ」

・・・43歳十日間の断食の末に死去       「われわれはみなゴーゴリーの『外套』から出たー( 偏印) ドストエフスキー」


 『印綬 トーマス・マン』 ー「魔の山」ー「普遍的な病気と普遍的な戦争を一身に背負うという人類意志、民族の苦悩から人類の苦悩

」を描くトーマス・マンが、なぜ日本文学に居ないのかと嘆く( 劫財) 松岡正剛の「千夜 千冊」。両者は「理念」で結ばれている。

トーマス・マンの原理ー「私は悲劇になどではなく、はるかに和解向きに生まれている。私の行為はすべて和解と調整であり、私の

奉じる立場は一方と他方とを共に肯定し、共に価値を与え共に実り豊かならしめる平衡であり、調和ではなかろうか。すべての力が集

まり合ってこそ世界はつくられる。どれもが重要であり、どの力もそれを発展させていくだけの価値がある。しかもどのような素質もただ

自分を通してのみ完成させられる。つまり他者の立場をいついかなる時にもただちに完全に取り上げ、取り入れる事。全者であること。

一方の原理を完全にし、また他方の原理をまっとうさせて、個々の原理一つ一つを固執する連中を恥ずかしめる事」

ゲーテに託したこの原理は、トーマス・マンが何度となく立ち返る自己内面の変らぬ確信、「普遍性」をもつ「自己完成」への標識「理念

」なのである。印綬は全体統合「自己完成」が、人生目標「宗教」なのである。

「言葉は人間の誇りであって、言葉のみが人生を人間が生きるに値するものにするのである。人文主義のみでなく、人間愛一般、古く

からの人間の尊厳性、人間尊重、人間の自己尊重は、言葉及び文学と緊密に結びついている。従って政治も文学と結びついている。

というよりは、政治はこの結合、人間愛と文学の結合から生まれるのである」


 『印綬 ハルトマン 』 ー「価値実在主義」 「カテゴリー階層の原理」ー「範疇が原理である事に拠って具体的なものを規定し決定す

る。かくして具体的なものも範疇なしでは無となる。このように範疇は原理ー存在として、具体的なものに依存しつつ独立なのである」

「妥当するとは範疇が具体的ものに対し原理ー存在である事である」 カテゴリーも存在であるとする思想である。

ハルトマンの世界観は主体の外を客体が包み、その外を超越的存在が包むというもので、超越的存在とは理念の事である。

「いかにして批判的存在論一般は可能か」の表題が示す如く、カントの「理念ー原理」を実存経験界に引き下げて全体統合を目指す。

初期は新カント派に属し、フッサール現象学との出会いを通じ自己内面に当てての思考は、精神や歴史も種々の外側存在層として論

じる「批判的存在論」を提唱するに至る。批判的とは「思考の限界」を知る事である。

ハルトマンに「存在論」への思考へと導いたものは、本人の第一次大戦
での兵役実存体験である。


 『印綬 カフカ』 ー「審判」 「城」 「アメリカ」ー「不条理」 実存主義文学の先駆

「私は、自分を咬んだり刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし我々の読む本が、頭をガツンと一撃して我

々を目覚めさせてくれないなら、いったい何のために本を読むのか」 「幸福にするためか」「本なんかなくても同じように幸福でいられる

だろうし、幸福にするような本なら必要とあれば自分で書けるだろう」 「必要な本とは、我々をこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のよう

に、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、我々に作用

する本のことだ。本とは我々の内の氷結した海を砕く斧でなければならない」 「真のリアリティはつねに非リアリスティックである」

「本質直観」のリアリスムを言う。・・・結核を患い原稿の焼却を友人に頼み41歳で死去

「『審判』は完全に成功した作品だと言えるー( 偏官) カミュ」

「カフカという署名のある一篇の寓話は、私には、まだ若い従順な読者であったにもかかわらず、言いようもなく無味乾燥なものに思わ

れた。長い年月を隔てたいま、私は敢えて自分の弁解の余地のない文学的鈍感さを白状する。啓示を前にしていながらそのことに気

がつかなかったのだからー( 偏官) ボルヘス」


 『印綬 クレッチマー』 ー「体格と性格」ー「肥満型 躁鬱気質」 「細長型 分裂気質」 「筋骨型 テンカン気質(粘着気質)」 

「精神病、体験、人格、の一つの完結した全体」と見、精神疾患から性格異常を経て正常の性格特徴にいたる連続した系列を仮定。

精神病という異常をさらに敷衍して「傾向性」で気質、体型、学者の学問分野、天才的作曲家、ヨーロッパ人種の体質分類までに至る。

「ドイツ音楽界の天才的作曲家の大部分は、アルプス人種の中心地であるボヘミアを半円形に取り巻き、さらにここからアルプス山脈

に向かう局限された地域に生まれている」「ヨーロッパ音楽史の主要部分を占めるものは、最も強くアルプス人種の血を受けたドイツ、イ

タリア、フランスの三民族であり、その中でも首位を飾るものが、特に繊細な情感に恵まれたイタリア、オーストリア、ザクセンの地方か

ら出た天才たちである」 精神疾患(実存)を人類の文化まで広げて、自分の原理を試すのである。

クレッチマーには第一次大戦中の軍医としての戦争神経症臨床体験が基底にあり、塹壕戦での個々の人物の精神異常を眼の辺りに

すれば、異常は正常のすぐ傍にあり、気質等への発想、自己世界の系統拡大は自然過程である。


 『印綬 ヴァルター・ベンヤミン』 ー「文学 = 批評というひとつの文学ジャンルは芸術と、潜在的には体系的な思考で在らねば成らな

い本来の哲学との、中間の領域にわたり」「このジャンルには根源的な原理がある」

この原理を「聖書の原理」として、文学対象を一発で直観明言する。( 傷官) エルンスト・ブロッホ「黙示録的メシアリズム」「宗教というユ

ートピア的カテゴリー」の影響であるが、中間の社会、国家への絶望観がここにはある。

「暴力批判革命論」ー「神の審判」での革命論 ー ( 印綬) 野村修訳で「ベンヤミンの生涯」も著す。

「青春の形而上学」ー楽園風景を甦らせる自分の記憶 「おお狐色に焼けた凱旋記念塔よ 幼き日々の冬の砂糖にまぶされて」

「ドイツロマン主義の芸術批評の概念」ー主題と表現の不一致( 食違い) はイロニーを生む「ロマン主義の核心はメシヤニズムにある」

「ドイツ悲劇の根源」ーバロック悲劇の寓意( アレゴリー) は、シンボルが理念を指示するのに対し、憂鬱( メランコリー) を指し示す「寓意

においては歴史の死相が凝固した原風景として、見る者の前に拡がっている」

「複製技術時代の芸術」ー大量生産品と生気を抜かれたガラクタと死骸娼婦、それらの断片収集から寓意詮索する( 正官) ボードレー

ル「すばらしい春はむその薫を失った」に、「楽園万物照応の夢」を読む。

「歴史の概念について」ー歴史は「いま地に倒れている人々を踏みにじってゆく行列」で、革命は忘却された過去を全面回復する「そこ

を通ってメシアが出現する可能性のある門」である。

・・・・・ナチズムからの逃避中 48歳でモルヒネ自殺。


 『印綬 シェストフ』 ー「悲劇の哲学」「悪の哲学 絶望からの出発」ー( 偏印) ドストエフスキーの「虚無」( 傷官) ニーチェの「悲劇性」

を、人間の存在条件と見る事を説き、わが国の( 劫財) 小林秀雄をはじめとする思考する人々を「精神の死」から救う。

「 人は常に世界を自ら贋造することなしには生きられない」というニーチェの認識、世界の虚像である理想主義の崩壊と虚無の現出を、

作家の生涯と著作の内に探る事、それは「理念希求する生命体モデル」思考で、本質を問わずに現象を見て時代精神を報告する事で

あり、不安と精神的混迷の時代の精神安定剤「覚悟」を人に給与するのである。社会理想に破れても実存域がまだ残るー「悲劇の哲

学が始まるのはここからである。希望は永久に消えうせた。然も生きてゆかねばならず生命は長い。死ぬ事はできない」


 『印綬 ディトロ 』 ー「百科全書」ー「新しいガウンの見事さに合わせて家具を買い替えてしまった結果の、書斎全体の居心地悪さ(

私の古いガウンを手放したことについての後悔)」は全体系統するディトロの「ふるさと」を言っているし、自我に近い順からの系統を大

事とする事の教訓にもなっている。

「感じやすい人間」ー感性の称揚「自然が感じやすい魂を練り上げたとすれば、それは私の魂だ」という通り「ラモーの甥では虚無主

義者を登場させ、「お喋りな宝石」は指輪をすると面前の女性の性器がその経験を告白するというエロ風刺小説であり、「修道女」は(

偏印)サドの先駆的兆候を見せる。感覚感情全体をも表現しているのである。

晩年にはペテルスブルグに滞在し( 劫財) エカテリーナ二世への、危うくなったヨーロッパ芸術品売買の仲介役となる。


 『印綬  ヘルダー』 ー「人類史哲学の理念」「理性の動的歴史的発展」 「言語の起源」ー言葉は純粋に人間による自然な発明

敬愛する( 正官) カントの理性主義に反対して、理性は根源的なものではなく、その根底に精神と自然と合一なるものがあるとし、その

直接的産物としての民衆の詩や宗教に着目する。

( 劫財) ハーマンからの主客合一思想は、神と世界、感性と悟性も区別すべきものではなく、美もまた単なる形式ではなく内的生命の

象徴としての完全性であるとして、後の文学運動「疾風怒涛」を用意する。「理性」と「実存」を「神 = 自然」に合成するのである。

人類全体の動的発展を歴史と見る「歴史哲学」は、( 劫財) ヘーゲル「精神現象学」へと受け継がれてゆく。

ヘルダーはこの動的発展を「言語」「芸術」に見る際に、自分自身の個体発育過程を内省して考える。

「視覚の中にあるのは夢であるが、触覚の中には真実がある」触れることから見ることへは「彫塑から絵画へ」の移行であり、後戻りで

きない実存域「自然との一体」は「触覚域」にあるとする。( 偏官) バークリーとメルロ・ポンティの思考域である。

「自然は我々から遠ざかり隠れてしまった 技術と身分と機械装置とつぎはぎ細工がそこにある」


 『印綬 エマソン 』 ー「自分がいかなるゲームの一部であろうと、自分自身に対しては心のゲームを演じるべきではないし、自分の

内面とはこれ以上無いと言う位、正直かつ真剣に向かい合うべきだ」 

対自から繋ぐこの全体思考を「エマソンの超絶主義 transcendental」と呼ぶ。しかしこの全体性は知的思考が要請したものでもなく、ま

た直観で空中に貼り付けたものでもなく、自我内省から系統全体化したものである。

この「対自」の「信」から獲得した架空の客観視座を、「超越論的 transcendental」とフッサールは呼ぶのである。

エマソンの語り口が哲学思考から外れた、生活言語思考で「大霊」「奇蹟」を言うから「絶対自然主義」の張り紙に反転するが、エマソ

ンの非知「無限」の在処は大仰さにあるのではなく、「真の教養とは辺鄙な農園の貧しさや、都会暮らしの雑駁さの中にいつも決まって

現われてくる」「あのいくつかの要点を学ぶ゜ことであり、ありのままの自分でいる勇気を持つこと、単純で美しいものを愛する事、自立

心、快活な人間関係」身辺そしてその体験内省から、全体確信の方法をいうのである。

「農園の貧しき」風景に頭を下げる事、「善」で世界は統合される。・・・・・( 偏官) ソローが人生同伴す。


 『印綬 国木田独歩』 ー「忘れえぬ人々」ー「此等の人々を見た時の周圍の光景の裡に立つ此等の人々である。我れと他と何の相

違があるか、皆な是れ此生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行路を辿り、相携へて無窮の天に帰る者ではないか」

「僕は其時ほど心の平穏を感ずることはない、其時ほど自由を感ずることはない、其時ほど名利競争の俗念消えて、總ての物に對する

同情の念の深い時はない」 忘れえぬ人々はエマソンの「農園の貧しさ」と同じ風景のなかにいる。

割の悪い仕事を身体化し風景と合一した人間存在に、非知「無限」運命を「触覚」して「敬意」に繋ぐ、と自我拡大の直観がやってくる。

「自分がいかなるゲームの一部であろうと、自分自身に対しては心のゲームを演じるべきではない」これが「人道主義」の対自「心根」

であり、他者を意識したトタンに「対自」から離れて、「自己欺瞞」のゲーム「偽善」に反転してしまう。

客観論理「労働価値説」の反転もここにあり、多くの人道主義者が「社会主義」で躓いたその要因である。

宗教の「本質直観」は、客観「愛」ではなく、主観自分の為に「人を憎まぬこと」と解して、「汝の敵を愛せよ」の本意を生かすのである。


 『印綬 ホイットマン』 ー「民主主義の詩」 「自由」「平等」「友情」の賛歌 「民主主義の精髄には宗教的要素がある」「人格主義の

背骨は宗教性である」ー「宗教的民主主義」  民主主義 それは「一人の神聖さ」という「宇宙の法則」が基本、 馬車の御者や船頭

に代表される粗野なアメリカ人に共感を寄せて 「この書に触れる者はひとりに、人間に触れるのだ」という自負の言葉どおり、人間の

誇り、民主主義の理想、霊的高み、性的自由、アメリカ精神の神髄を歌いあげた詩人の代表作「草の葉」。

過激、狂人、ポルノ詩人との悪口と、新しい人間精神の開拓者という賛辞が、「実存」と「理念」の統合を証明する。

「アメリカ人よ 征服者よ 人道主義者の練り歩きよ 真っ先のものよ 前進する世紀よ 自由民よ 大衆よ 君たちのために贈る頌歌

の番組 アメリカよ わたしの詩篇を受け取れ 南部も 北部も 無樹の大草原の頌歌」


 『印綬 ラファイエット』 ー「新大陸の英雄」ーアメリカ独立戦争で活躍し、フランス革命「人権宣言」を起草した立憲穏健派の自由主

義的革命貴族 「人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等である」


 『印綬 ヘミングウェイ 』 ー「死の凝視」「乾いた文体」「生のさなかの死」「簡潔な文体とみごとな構成」「黙々と生きる男の虚無と絶

望と救い」「人生のはげしい嵐をとおりぬけた諦観」「だれか話し相手がいるというのは、どんなに楽しいことかが、はじめてわかった。自

分自身や、海に向かっておしゃべりするよりずっといい( 老人と海) 」「それは小さなしるしに過ぎなかった、しかし人生というのは小さな

しるしから成り立っているのだ」「とにかく新しい毎日なんだ」ー アウト・ドアーの人道主義者、63歳猟銃を咥えて死去。


 『印綬 バーナード・ショー』 ー「人間主義的な考えと楽観主義の戯曲家( マイ・フェア・レディ) 」 イギリス労働党のバックボーン = フ

ェビアン(中産階級)社会主義運動、ネオ・ラマルキズムの提唱者の一人。

「人は物事をみて、なぜと問う。しかし私は、決して存在していないものを夢見て、なぜそうでないのかと問う」「時間が十分にあれば、

すべてのことが遅かれ早かれ誰のもとにも起こりうる」「貧乏にたいする恐怖に人生を支配させてしまえば、その報酬として食べていくこ

とができるだろう。しかし生きることはできなくなる」「人類から愛国心を取り去らないかぎり、平穏な世界に住むことはできない」「その

人にとっての神が有頂天なっているような人間にたいして警戒せよ」「すべての知的職業は素人にたいして陰謀を図る」

「いつも自分を磨いておけ。あなたは世界を見るための窓なのだ。」


 『印綬 エリアーデ 』 ー「世界宗教史」ー60年間で 1300以上の著作を残した宗教現象学者

「原初のときに顕現した聖なるものとのつながりの回復」「『原初のとき』そのものを反復しようとする人間精神に普遍的に内在する始

原性の追求」「人間が聖なるものを知るのは、それがみずから顕われるから」「聖なる場所は空間の均質性における裂け目を表わす」

「本当の意味で人間のなるためには、この最初の自然的生から死滅して、宗教的で同時に文化的であるより高次の生に生まれ変わら

ねばならない」


 『印綬 リオタール』 ー「ポストモダンの条件」−「ポストモダンの知は、あれこれの権力のための単なる道具では無い。それは様々

な差異に対する我々の感性を洗練させる知、すべてを単一の基準に還元しょうとする力に対抗する、我々の能力を強化する知なのだ」

「大きな物語の終焉」「知識人の終焉」を宣言して、晩年の「聞こえない部屋」では人間の孤独と共同体の不可能性が語られる。


 『印綬 リチャード・ローティ」−「リヘ゛ラル・ユートピアの可能性」ー「人間の連帯は真理の哲学的な探究によっては不可能である」

「他者が被る残酷さに対する、私達の感性を拡張することによって、連帯は達成されるのだ」 

アメリカ・プラグマティズムの立場から、社会的合意の道を理性的倫理を外した、感覚感情による共感共苦に置き、お題目となった「立

場を持った倫理的対立の思考」を、個々人内面の共通実存域に引き戻す。

「連帯とは伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較して、さほど重要ではな

いと次第に考えてゆく能力、我々とかなり違った人々を我々の範囲に包含されるものと考えてゆく能力である」


 『印綬 シェーンベルク』 ー「無調音楽」ー 12音技法「客観主義的構成法」 音の調べ、感覚感情を重視しない現代音楽の先駆


 『印綬 ダシール・ハメット』 ー「マルタの鷹」「錯綜した事件を、報告書のような簡潔性、完全客観のカメラアイスタイルで描く、ハード

ボイルドの先駆」ー映画化は( 偏官) ハンフリー・ボガードが初主演


 『印綬 西周 』 ー「近代日本哲学の父」ー「百一新論」「百学連環」は我国最初の西洋哲学案内の書。

「西洋哲学ヒロソヒは実に驚くべき公平正大の論」 「哲学は諸学の上なる学と言えり」

テーマは物理と心理の区分であり、また経験以上の「理」の世界が西洋にもある事に驚嘆歓喜する。

「哲学」「主観客観」「先天後天」「理性」「悟性」「感性」「観念」「意識」「命題」「還元」「帰納」「演繹」「綜合」の命名者。


 『印綬 内村鑑三』 ー「余は如何にして基督教徒となりし乎」「求安録」「代表的日本人」「ガラリアの道」「十字架の道」ー

個人による聖書研究を重視し、教会や典礼といった制度、形式を退ける無教会主義の創始者。

(劫財)ウィリアム・クラークに感化を受け、キリスト教徒となり、足尾鉱毒事件に際しては銅山経営者糾弾の論陣を張る。

「キリスト信仰が無ければ、こんな大理想と神経過敏にはならなかった」

「キリスト信仰は思想と感情の真中を地下三、四尺の処まで掘り返ひっくり返した大不幸」

「人類全体が まむしの裔であり、人間憎悪者でありカインの子孫である。ああわが霊魂よ、すべての主義から離れよ。メソジスト主義、

組合主義、 その他のいかなる仰々しい主義からも離れよ。真理を求めよ。なんじら男らしくふるまえよ。人にたよるなかれ。なんじの頭

上を仰ぎ見よ」



 『印綬 田中正造 』 ー「足尾鉱毒反対運動の人生」 ( 劫財) 幸徳秋水に書いてもらった「直訴状」を、(劫財)明治天皇に渡そうとす

る。明治帝は取り押さえられた正造の名刺を所望し、茨城知事に報告書を命じる。 ここまでである。鉱毒被害は延々つづく。

「魚を漁るものは魚の心をしる。下民と共にするは下民と情を同うするにあり、真に到らざるものは真なし」


 『印綬 孫文』 ー「三民主義」民族主義( 民族の独立) 、民権主義( 民主主義の達成) 、民生主義( 経済的な不平等の改善) を説く。

「スエズ運河を通ります時に、沢山の土人が、共の土人はアラビヤ人であったようですが、私が黄色人種でありますのを見て、非常に

喜び勇んだ様子で私に( お前は日本人か)と問いかけました。私は(そうではない。私は中国人だ。何かあったのか、どうしてそんなに

喜んで居るのか) と問いましたところ、彼等の答えは( 俺達は今度非常に喜ばしいニュースを得た。何でも日本はロシアが新に欧州よ

り派遣した海軍を全滅させたと言うことを聞いた。この話は本当か ・・・・・・・・) 今私が大アジア主義を講演しますに当って述べました

以上の話は、どんな問題であるかと申しますに、簡単に言いますと、それは文化の問題であります。東方の文化と西方の文化との比

較と衝突の問題であります。東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道であります。王道は仁義道徳を主張するものであり、覇道

は功利強権を主張するものであります。仁義道徳は正義合理によって人を感化するものであり、功利強権は洋銃大砲を以て人を圧追

するものであります。( 大アジア主義 1924年 12月 28日 神戸高等女学校において) 」 ・・・・ 「革命いまだならず」北京にて客死。

西洋東洋にも覇道と王道がある。孫文の内面が「正義合理によって人を感化する」世界なのである。

「孫文先生の理想は、いまわ れわれの手のなかで実現されつつあるー( 印綬) 周恩来 」


 『印綬 李登輝』 ー「私は本当に子どものころから自分の内面( 小宇宙) を見つめ続けてきました。そして、人間はなぜ死ぬのか、生

きるとはどういうことなのか、というようなことばかり考え続けてきました」ー実存主義( 偏官) 蒋経国が若き日夢みた「理念」の人間具

現像、( 正官) 司馬遼太郎が小説で追う「日本人の理想像に近い人」と謂わしめた、最後の象徴的人道主義者。


 『印綬 ウイリアム・モリス』 ー「日用品美化運動」 社会主義的社会美化運動ー過剰な装飾をやめ、生活に密着したシンプルな型

や構造に重点を置くデザイン。中世の手工業に憧れ、「手づくり」志向に現れる人間の労働の価値を言う。

「生産工程における分業ではなく、ひとつのものをその完成まで自分で作ってゆく性格」 「生産者と消費者との直接的な関係の維持」

「地方的特色が中世ギルドの作品に美と自然との釣合をもたらす」は身辺からの「労働価値説」の完全獲得である。

(比肩)ダーウィン、マルクスと時代を同じくするが、社会から考えずに日常から考える。( 印綬) 北大路魯山人の先駆である。

「煙がたちこめる 首都圏六州を忘れ 噴き出す 蒸気ピストンの律動を忘れ 広がりゆく みにくき町を忘れむしろ思え 丘陵の荷馬を

 そして夢見よ、小さく白く清らかなるロンドンを 
緑の庭に縁どられた 清冽なテムズ河を ( 地上の楽園より) 」


 『印綬 ケネー』 ー「経済表」血液循環論の発想を、農業生産を基礎とする循環的再生産過程に適応。ジグザグ線図で経済循環を

表わし、以後の経済学の基本概念を提示。


 『印綬 マルサス』 ー「人口論」は「家族を養うあてもないままの早婚による人口増加を、人類は解決出来るか」がテーマである。

現在の地球的規模では絶望的なこのテーマを、 200年前の経済学の範疇で思考する。

これは「欲望を否定せずに、社会理念に繋ぐ」というテーマと同一の「理念」である。

「利己の原理」とむすびついた「悪化させることへの恐怖」その習慣、「慎慮的習慣」の進化的形成論を説き、自己責任形成の為「発

言権をもつ平等で自立的な主体としての取り扱い」も考慮される。

しかしこの「慎慮的習慣」は( 食神) マックス・ウェーバー家のような、貯蓄を次の資本として運用する市民的経営資本家には該当する

が、人口問題が対象とする低賃金労働者は「怠惰と安逸への誘惑」に常にさらされている。

人口法則は「精神の創造と形成のための神の偉大な過程」であり、「経済学が数学よりもずっと倫理学や政治学に似ていることを認め

ざるをえない」・・・決定打は無いのである。

( 比肩) ダーウィンは「生存闘争」論が「
マルサスの原理を全動植物界に適用したものである」と「種の起源」の「序言」で言う。

ダーウィンの頭に人間社会の概念があるからこそ、単なる生物学が社会学として読まれるのである。


 『印綬 大杉栄』 ー「精神が好きだが、理論家されて大概はいやになる。事大的まやかしがある」 「理屈を言う新しい女性も半々で

ある」 ー関東大震災の流言蜚語の中、妻( 劫財) 伊藤野枝と伴に憲兵隊に拘引虐殺さる。


 『印綬 トロッキー』ー「生は美しい、未来の世代に属する人たちが人間の生活から、すべての悪すべての抑圧すべての暴力をぬい

去り、そしてそのすべてを享受するように・・」ー( 正財) スターリンとは完全敗北の相性。( 比肩) レーニンを絶対化する作戦に破れる。


 『印綬 クロポトキン』 ー「相互扶助論」ーダーウィンの「生存競争」という定式に対し、「相互扶助は相互闘争と等しく自然の一法則

であり、一種の進歩的進化のためには、前者の方が後者よりも遥かに重大である」動物学者ケスレル説が無政府主義の真髄である

事を、大杉栄の「クロポトキン総序」は説明する。

相互の「扶助」と「闘争」はそのまま物質奥、本文「気の原理」の「生成」と「制圧」であり、大きく見れば「制圧」原理は全「生成」過程の

順列補完を司る二次的なものなのである。


 『印綬 ソレル』 ー「暴力論」ー「議会主義社会主義学者、彼等は労働者には自分が革命の旗手であるかのように信じさせ、ブルジ

ュアには彼らを脅かしていると信じさせ、国家には自分が不可抗な世論を代表していると見せようとする」


 『印綬  ロバート・オーウェン 』 ー「新社会論」国際労働機関( I LO) の必要を 100年前に説く。「労働証書」は地域通貨の基本的な

概念の基礎として有名。「いかなる財の価値も生産物を作るのに必要とされた時間からのみ計測ができる」という考え方は、倫理「労

働価値説」が「理念」化されたものである。


 『印綬 ルイセンコ』 ー「獲得形質は遺伝する」ソ連農業アカデミーの総裁ー「環境に適応するための闘争をのり越えて、新しい社会

を実現するという」共産党方針に演出されて、( 正財) スターリンの粛清 50万人処刑に手を貸す事となる。


 『印綬 ウラジーミル・ナボコフ』 ー「ロリータ」は赤貧のなか、新天地アメリカへの脱出のためのパスポートである。書く事を控えられ

た「理念」の方は、生涯の軌跡と特異な作品世界が呼応しあう文学実験を「ナボコフ伝ーロシヤ時代」が裏付ける、とある。


 『印綬 マルタン・デュ・ガール』 ー「チボー家の人々」第 1次世界大戦と第 2次世界大戦のはざまで、主人公は社会主義者となり前

線に飛行機でビラを撒き、口に怪我をして弁明できずにドイツ軍のスパイとして銃殺されると言う「不条理」ストーリー。


 『印綬 今西錦司』 ー「種社会の重なり = すみわけ理論」ー( 比肩) ラマルク、ダーウィンらの個体主体性重視から、主体性を「種」イ

デアに在るとして、その下位構造として生物個体を見る。個体の「生存闘争」を局所的で、長い時間に耐えない思考と考える。

自然のありのままの受容と認知の重要性、
 全体が一つでありつつ変化してゆく過程、それを「自然学」と呼ぶ。

「いろいろな生物がそれぞれに異なった世界をもち、異なった生活を営んで入るのであるからして、生物を生物としてその正当な立場に

置いて研究するということが、大切である」 全体と一つになった生物に頭を下げて、自然に「善」を見る眼差しである。


 『印綬 ポアンカレ』 ー「科学と仮説」「科学と方法」「最後の万能学者」ー「科学者は、それが便利だという理由では自然を探究しな

い。それが心地良いからであり、それが美しいから心地良いのである。もし自然が美しくなかったら知る価値はない、また人生も生きる

価値がない。私はもちろん感覚に訴える美しさや、質感や見かけの美しさを言っているのではない。私はそれを嫌うわけではないが、し

かしそれは科学とは無縁である。私が言いたいのは、自然の部分の規則性の調和からくる直観的な美しさであり、それは純粋知性が

垣間見るものである。」


 『印綬 チェルヌイシェーフスキー』 ー「現実に対する芸術の美学的関係」ー「生活がそうあるべきだとされるよう生活をわれわれがそ

こにみるところの存在物が美しいのであり,生活をみずからのうちにあらわしているとか,生活についてわれわれに想い起こさせるとか

する対象が美しいのである。」


 『印綬 ローレンツ』 ー「ローレンツ収縮」ー「世界は物質、電子、エーテルで出来ている」とする古典物理学で、「粒子は運動で質量

長さを変え、光速度が理論的上限値である」ことを、像的思考の( 偏印) アインシュタイン前に提示する。


 『印綬 スーザン・ソンタグ』 ー「隠喩としての病い」 癌を体験し、病気のメタファーを整理する。( 劫財) 松岡正剛への強い信頼感 

ー「夢を追い求めることで人生の意味を解くより、人生を追い求めることで夢の意味を解き明かす」


 『印綬 佐藤信淵』 ー「宇内混同秘策」ー( 偏印) 平田篤胤の神代神話解釈が影響しての、経済統制して天皇中心「世界を混同す

る」農本ユ−トピア社会主義国家構想を展開。江戸を「東京」と改称し都を置くこと、富国強兵など、以後の明治国家の原像を先取りす

。農学・経済学・天文・測量・気象・鉱山・兵学・医学・政治・教育・地理・歴史等の百科事典的博学で、我国の「持ちネタ」を洗い出す。


 『印綬 大国隆正』 ー「尊皇敬神と誠の教え」神道、人道、獣道の三道は皇学的世界観であり、これに相応する神欲、人欲、獣欲の

三欲は生物の生命論的倫理観であるー佐藤信淵門下


 『印綬 石田梅巌』 ー「心学( 実践道徳哲学) 」ー「其時腹中は大海の静々たるごとく、また晴天の如し。其雀の啼ける声は、大海の

静々たるに、鵜が水を分けて入るがごとくに覚えて、それより自性見識の見を、離れたまひしとなり」という「理」と「性」の合一体験から

、聴講料無料 男女共学、平等、正直、勤勉、倹約、質素の「労働価値説」道徳の実践を説く。

「己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達すとのたまふ、これ仁の道なり。此語を以て只今までは人に譲ることのみを

思ひ、その譲る所に仁ありと、ただ軽く思ひしが、よく考へると己れが欲する所を人に施すばかりと心得るは浅間敷、己れとは我心なり

と心得その我を退けて人を立つときは天下のことなり」


 『印綬 山田詠美』 ー「青春とは人生で最初に後悔を醸造する時期、気がつかないまま後悔のもとをつくっている。私はいつでもこの

時代に立ち戻る、と小説で証明したい」統合と、「これから立ち上がろうという気にさせない小説は好きではない」理念への信である。


 『印綬 丸山圭三郎 』 ー「ソシュール理論の発展、言語学」 ソシュールから始めて、この世の総ての事柄を言語的側面から「カオ

ス」ー「自己表出」ー「コード制度」ー「非実体的差異」ー「コード無き差異カオス」に系統綜合する。

気が付くとソシュールは読むまでの価値は無い、との信号を読者は受け取っている。

上と下に位置するカオス「無限」に向け、「無意識」「笑い」「フェティシズム」等をテーマに、言語的不可能域を現象学的に確定する。


 『印綬 蓮実重彦』 ー「物語批判序説」ー物語は知に従属していたが、十九世紀には物語りの装置が知と同調しうる空間が出現し

た。この空間「説話論的磁場」のおかげで、知は物語に従属しまた自己増殖し、「限界体験」という物語のふるさとは見失われた。  

「知」も「物語」も「対自」との糸が切れたガラクタとして、集積されている。

・・・・「東大総長を引き受けない為のすべての努力を行った」ー東大総長就任の弁


 『印綬 笠井潔』 ー「哲学的自我は人間ではない。人間の体でも、心理的緒性質をそなえた人間の心でもない。それは形而上学的

主体であり。世界の( 一部なのではなく) 限界なのである」ー「矢吹駆シリーズ」探偵矢吹駆は、犯罪を現象学的に分析する。

「テロルの現象学」は「ナゼ社会理念が、連合赤軍のリンチ事件を引き起こすのか」をテーマとして、書かれたものである。


 『印綬 セリーヌ』 ー「夜の果てへの旅」 若き日のサルトルを狂喜させ、トロツキーを泣き笑いさせた代表作 「徹底的なペシミスムと

人間嫌悪、俗語、卑語」 「なぜ私がこんなに卑語を、俗語表現を使うか。それはこの言葉が直ぐ死ぬからだ。ということは、この言葉が

生きたからだ。言葉も、万物の例に洩れずいつかは死ぬ。普通の小説の言葉は死んでいる。文体も、何もかも死んでいる」 


 『印綬 ターナー』ー
「日の出・岬の間の船」「大気そのものを色と光で表現、後の印象派の画家への影響、自然は絶えず動き変化

する、とする最初の画家」「色彩は崇高である」ーイタリア旅行後に彩度は増してロマン主義と呼称される。


 『印綬 コロー』 ー「自然主義」「人物のいない森の風景画」「一番好むのは美しい階調を持った明暗、色は私の好まない不調和の

機となる。私が鉛色の色調ばかりよく使うといわれるのも、あるいはこの主義に凝りすぎるからかもしれない」「作品の全体のまとまりと

画品とが私にとって先決問題」「形や色など細かい問題はこれが確定してからである」ー「パリ・バルビゾン派」の中心人物


 『印綬 クールベ』ー「レアリスム( 写実主義) 宣言」ー「レアリスムの根底とは理想の拒絶である」「『オルナンの埋葬』はその実ロマ

ン主義の埋葬だった」  この時期、写実主義の2大代表文学が続けて刊行される。

田舎医師の若い後妻が不倫をして自殺した現実の事件をもとにした( 印綬) フローベール「ボヴァリー夫人」、そして( 正官)ボードレール

「悪の華」である。ボードレールを描き込んだ「画家のアトリエ」はパリ万博美術展への出品を拒否され、万博会場近くで展示したこと

が「個展の起源」となる。


 『印綬 クロード・モネ』 『印綬 ゴッホ』『印綬 ゴーギャン』 『印綬 ムンク』ー「理想の拒絶」以後には、閉鎖の実存域のみが残

される。「自然 = 全体」の概念、理想風景「
崇高」は完全に死滅したのである。・・・「存在の謎」に立ち向かう。


 『 印綬 岸田劉生』はゴッホに傾倒心酔してあの写実「麗子像」に至るー「実在の神秘を探り、こゝには表はそうとしたが、自分の感

じたのよりもずっと力弱きものになった。驚く可きは実在の力」

ゴッホの絵の中、弟の子供の為に描いた「アーモンドの木」には自己(色)との格闘は無い。まるでモネように・・・・。


 『印綬 フイリッポ・マリネッティ』 ー「未来派宣言」ー「われわれは時代の崖っぷちに立たされている 不可能性の神秘の扉を打ち壊

さなければならないのに なぜ過去をふりかえるのか 時間も空間もともに昨日死滅した われわれはすでに偏在する永遠のスピード

を創造してしまったがゆえに 絶対を生きているのである」 ー 「花咲く野に機関銃 火の焔の蘭を乱れ咲かせて 戦争は美しい」


 『印綬 ブリュンチェール』 ー「フランス文学史提要」古典的文芸批評の立場で印象主義批評を叩くー「自然主義の破産」でゾラ批判


 『印綬 ポール・エリュアール』 ーシュルレアリストー「彼女はぼくのまぶたの上に立つ 彼女の髪はぼくの髪の中 彼女はぼくの両

手の形 彼女はぼくの目の色 彼女はぼくの影の中に消える 空の上の石のように 彼女はいつも目を開き ぼくを眠らせない 彼女

の夢は 光の中で太陽を蒸発させ ぼくを笑わせ 泣かせ笑わせ 言うことがないのに喋らせる」


 『印綬  プレスリー』 ー「マリー・インザ・モーニング」ー「朝のマリーほど美しいものはない 善悪を問わず愛を分かつ・・・」

(比肩)小椋佳の「シクラメンほど清しいものはない・・・」の旋律も含めての本歌である。


 『印綬 ミヒャエル・エンゲ』 ー「モモ」ー物語の中に哲学理念を差込んで、解り易い哲学内容を目指すガリレイの対話書の系譜。


 『印綬 ジョージ・ガモフ 』 ー「不思議の国のトムキンス」ー 相対性原理の世界を経験世界に下ろして原理を説明する


 『印綬 リユール・トールキン』 ー「指輪物語」ー主人公は指輪の魔力「権力支配欲」の無い、小人族という発想。


 『印綬 セルマラーゲルレーヴ』 ー「ニルスの不思議な旅」ー小さくなって自然に入れば、自然原理で子供は成長して帰還する。


 『印綬 アンデルセン』 ー「みにくいあひるの子、裸の王様、マッチ売りの少女」ー「私の生涯は一篇の美しい童話である」「私が書い

たはほとんど私自身の姿であり、登場人物は、私の人生から生まれたものです」


 『印綬 三木露風』 ー「十五で姐やは嫁に行き お里の便りも絶えはてた 夕焼け小焼けの赤とんぼ 止まっているよ 竿の先」


 『印綬 北原白秋 』 ー「この道はいつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる」「あの雲もいつか見た雲 ああ そうだ

よ 山査子( さんざし) の枝も垂れてる」 ー( 偏官) 山田耕作との極上の相性は、三木露風と同じく極上の「愛唱歌」を産む。


 『印綬 石川啄木』 ー「
東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」ー「啄木鳥」の一篇が君の其頃の心境を最も正

直に表現した佳作だと見て、私は「啄木」と云ふ雅号を附けて「明星」に載せたのであった( 正官) 与謝野鉄幹。

「いにしへ聖者が雅典の森に掻きし、光ぞ絶えせぬ天生『愛』の火もて、鋳にたる巨鐘、無窮のその声をぞ染めなす『緑』よ、げにこそ霊

の住家。聞け、今、巷に喘げる塵の疾風よせ来て、若やぐ生命の森の精の聖きを攻むやと、終日、啄木鳥、巡りて警告夏樹の髄にきざ

啄木鳥(きつつきどり)」・・・
( 劫財) 若山牧水にみとられ27歳結核にて死す。

・・・・・「水の如 からだを浸す かなしみに 葱の香などの まじれる夕」・・・・・

「時代閉塞の現状」は罪無くして「大逆事件」に死んだ( 劫財) 幸徳秋水と、( 印綬) クロポトキンの理想国家へのイデアを共有して書か

れた啄木の「理念」への転回点であつた。  「詩人として啄木ほどの技巧家は当時極めて稀であった( 北原白秋評) 」


 『印綬 永六輔』 ー「大往生」ー( 正財) 北山修から上述ロス女史「末期患者の感情5段階説」を面白おかしく聞き、感情放出を要点

に「面白おかし」の流れのままに死の問題を考える。妻の死への対応には、これだけでは不完全である。


 『印綬 清沢満之』 ー「精神主義」ー「自己に充足して求めず、争わず、天下これより強勝なるものなし、これより広大なるものなし」

明治の近代知性( マインド) に欠陥を見て、スビリット「精神」の必要を説く。「我輩は猫である」の哲学者のモデル。


 『印綬 鮎川信夫』 ー「繋船ホテルの朝の歌」ー「さわやかな朝の風が 頚輪ずれしたおれの咽喉につめたい剃刀をあてる」


 『印綬 藤原新也』 ー「人間は犬に食われるほど自由だ」ー東京湾埋立地の、毒殺される黒い野犬に「頭を下げた」文章を想う。


 『印綬 つげ義春』 ー「無能の人」ー(印綬)竹中直人主演監督で映画化


 『印綬 団伊玖磨』 ー「人生を楽しんでいるごとくに見せながら、まじめにこつこつと暮らして書いてきた。たったいっぺん生まれて死

んでいくんですから、いそいじゃ駄目です。幼稚な言葉だけれど、真善美に向かって歩いていきます」


 『印綬 井伏鱒二』 ー「黒い雨」から「駅前旅館」まで。喜劇駅前シリーズの原作者。( 印綬) 太宰作品の一番は「津軽」だと言う。

「津軽」の「女中たけ」は実際には太宰を忘れていた。しかしその再会は至福の時として描かれる。

「はしれメロス」の王はいう「信実とは、決して空虚な妄想ではなかった」 信実とは正直のことであるが、客観「真実」に対する主観の「

ほんとう」である。主観同士の合致、「理想型」として「信」を直観するから、文学を信じ「理想」を書くのである。

それはまず現実の「たけ」への告白である。印綬の正直とは「対自」自分の内面への「信実」である。


 『印綬 岡本太郎』 ー「芸術は爆発だ」ー「もっとこう、異質なものがぶつかり合って、音もなくパァーと開いていくということなんだ」


 『印綬 栗本慎一郎』 ー「脳にマラカスの雨が降る」ー右脳のど真ん中の脳梗塞「視床下部のちょうど真上のあたりだ、死ぬならもう

ただちにすぐということだろうし、あせっても別にもう大したことも出来ない」「さよなら、世話をかけたなとつぶやいて目を閉じた」


 『印綬 山本七平』 ー「日本人とユダヤ人」 日本人は、決して無宗教ではなく、「人間」を中心とした一つの巨大な宗教集団であるー

 夫婦揃って両親からの、内村鑑三無教会派の熱心なクリスチャン一家。


 『印綬 永山則夫』 ー「新論理学」 主観から客観、感性から理性への全体図式でサルトルを整理する。前述阿部次郎を想う。


 『印綬 田中角栄』 ー「んマァ そのォー」「日本列島改造論」ー地方の所得と風景を平準化する。欲望の平等主義である。

( 偏官) 田中真季子、田中直紀 との極上の相性。


 『印綬 夏目房之介』 ー「現象学的まんが読解」 意識の現象を平明な言葉で、内面理路を追ってゆく。と、全部が言い得ている。


 『印綬 樋口一葉』 ー「たけくらべ」ー季節の移りのなかに、吉原の少年少女の恋心を描くプラトニズム。 


 『印綬 織田作之助』 ー「淀の水車のくりかへす如くくり返される哀しさを人間の相と見て、その相をくりかへしくへかえし書き続けて

来た私もまた淀の水車の哀しさだつた。流れ流れて仮寝の宿に転がる姿を書く時だけが、私の文章の生き生きする瞬間であった」


 『印綬 東由多加』ー「僕はこの世に何物ももたらさず、何物も遺すことができないとしても、次の時代の風車( ロマン) へ立ち向かう、

ドンキホーテでありたい」ー( 偏官) 柳美里の子供を抱いて喜ぶ最晩年の日々の心中には、印綬世界の凝縮が在った。

( 印綬) 東山紀之と( 偏官) 森光子の関係もタマタマではなく、偏官は印綬を通して「理念」を心根で感じて受け取るのである。

そしてその生き急ぐ「死の覚悟」を感じて印綬は、「安逸の夢」から眼を覚まし本来性を取り戻す。



  印綬の主たる相性を云う。

     印綬は正財の現実優先思考に敗北する。

     印綬は正官、偏官によって内省化され、特に偏官によって感覚感情域をも系統す。

     印綬は比肩、劫財の合一世界観を助勢し、特に劫財とは「理念」を共有す。



 『印綬 織田信長』 ー「是非に及ばず」ー 神「無限」の雷光で串刺しされた観がある。(偏官)秀吉、家康との極上の相性。


 『印綬 飯田蛇笏』 ー「死病得て 美しき火桶かな」 「秋蝉の 鳴きしづみたる 雲の中」ー国木田独歩の自然主義に心酔


 『印綬 土井晩翠』 ー「荒城の月」「雨の降る日は天気が悪い」「天地有情」島崎藤村と双壁の叙事詩詩人ー星落秋風五丈原 「成

否を誰かむあげつらふ 一死尽くし身の誠 仰げば銀河影冴えて 無数の星斗光濃し」


 『印綬 斎藤茂吉』 ー「実相観入」ー( 正財) 正岡子規の「写生」は(印綬)長塚節の「天然人事の写生」主客の問いを経て、茂吉の「

実相に観入して自然一元の生を写す」に至る。「強靭重厚なリアリズム」「悲傷」「悲哀」「深刻なもの」「寂寞」「精神的負傷」写生とは

人の心の奥底まで写す事、実存底部と自然は「対自」で一体化される。

「茫々と したるこころの中にゐて  ゆくへも知らぬ遠のこがらし」 「寒くなりし ガードのしたに臥す犬に 近寄りてゆく犬ありにけり」 

「あまつ日は 松の木原のひまもりて ついに寂しき蘚苔を照せり」「かえり来し 家にあかつきのちゃぶ台に 炎の香する沢庵を食む」


 『印綬 平塚らいてふ』 ー「人たる女よ 真の女たれ」ー( 正財) 与謝野晶子の「経済的独立」に対し「母性保護の必要」を説く。

「元始 女性は実に太陽であった 真性の人であった 今女性は月である 他に依って生き 他の光によって輝く 病人のような蒼白い

顔の月である」 「毎夜蛙の声をききながら眠るのはたのしい  蛙の声をきいてゐると 無限の世界にいつかつながってしまふ」


 『印綬 高群逸枝』 ー「母系制の研究」 「われら貧しかりしかど 二人手をたずさえて 世の風波にたえ 運命の非なるにも克ちて 

ついに今日にいたりぬ」ー「大日本女性史」は平塚らいてふ等の後援で出版される。


 『印綬 上野千鶴子』 ー「女と男と世界の関係をつくり変えたい男や女たちが、フェミニストと呼ばれるべきである」


 『印綬 瀬戸内寂聴』ー「自分は幸せでも、幸せでない人が世の中にはいることに気付く、人権とはそれがないと駄目」 


 『印綬 壷井栄』 ー「二十四の瞳」ーヒューマニズムを再度言う。孤独の小さき者「対自」から外側世界に向けて、「善」で世界統合す

るのである。その世界観である。損得なしの「無限」に耐える「理念」である。失敗して又立ち戻り、公言しない恥ずかしの地点である。


 『印綬 木下恵介』 ー「二十四の瞳」 「喜びも悲しみも幾歳月」ー星を数えて波の音きいて 共にすごした幾年月の 喜び悲しみ・・・


 『印綬 緒方貞子』 ー「人々の安全保障に焦点を当てることであり、人々を通じて国家の安全保障を補強するということである」


 『印綬 星野仙一』 ー「 忘れようというのではダメ、原因を探りワカッターでないとスランプに入る」(偏官)立浪井川との極上の相性


 『印綬  ピーター・ホーク』 ー「刑事コロンボ」 ナーンカここが気になるから犯人に解いてくれと頼む。「信」を尋ねる現象学である。


 『印綬 マイケル・ランドン』 ー「大草原のちいさな家」の父さん役、「ボナンザ」の三男ジョー。


 『印綬 阿南惟幾』 ー「大本営の統帥乱れて麻の如し」ー公式の場で本土決戦を強硬に主張、陰で終戦を導くため戦争継続のクー

デターを阻止。陸相官邸で割腹自刃 ・・・・・「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」


 『印綬 小室直樹』 ー「小室直樹の学問と思想」をみるとカッパ文庫の平明な文章と、ヘベレケな画像に騙された事に気づく。

法社会学、比較宗教学、線形代数学、ミクロ経済、古典物理、抽象代数解析、位相空間論等を、ロハで週一、朝九時から夜七時まで

教え続けたとある。この場所で受講者は何を受け取るか容易に想像できる。人を通して「理念」への「信」を受け取るはずである。


印綬の「自己本分」とは「対自」を離さぬ事、自己内面の現象を無心に感情抜きで見つめる事、外側世界の一般性と通念の重きをはず

し、自分の「信」の系統を辿る事、外側世界に舞台はなく系統する内面が「ふるさと」舞台なのである。

思考の果てに「善ー共存原理」を直観し、その理解を超えた「不思議」を論理化せんとする。

ナゼか私の内面世界の矛盾を信で繋ぐものー「必然性への了解と理念への信」を満たすもの・・・・。

心構えをつくる「善」ではなく、内面統合のためにその都度理路発見される、自分の中の原理「生きる善」なのである。





      「母乳の犬の眠るの空 パカとはじけてパクと食む 明るいまぶたの 伸びのきったのたいたの 永久ツネリの時の町」


                                             『印綬 夏草しげのぶ』