[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」






偏財
 へんざい 

リ ア リ ス ト
(白部は主体を示す)
主 客 標 示
標語 「交遊談話」「収財巧妙」「開花褒美」「愛情奉仕」
ロマンチック 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13

      偏財人名リスト

シェリング   スタンダール   クロムウエル   ベンサム   ソシュール   ギャラップ    シャフッベリー  パース  ブレヒト

ピァジヨ   ディルタイ  カントール  アシモフ  ルイ・マル  サンローラン  キュリー夫人  ブラバッキー夫人  ミック・ジャガー

ウオルター・マッソー   ジェイムス・ディーン   ジャツク・バランス  デビット・ニーブン  ジョニー・ワイズ・ミユラー  ボブ・ディラン

ミッキー・ロウク   ロデイ・バディム   デビット・ジャンセン  アラン・レネ  ジーン・ハックマン  シヨーン・コネリー  アンドロポフ

フルシチョフ   ダライラマ  ダイアナ妃  マルコス大統領   ドムオイ  ネール首相  ゲーリング  ヘルダーリン  プレヴオー

ラムネー   アドラー   リユード  グロチウス  ロンブローゾ  ヴァレリー  ゾラ   ドビッシー  プッチーニ  ブランキ  ラカン

シュレッダー首相   カール・シュミット   ガロア   トマス・ハーディー  ハムソッコン   アングル  ゴーリキ  パデレフスキー

ラサール   グラッドストン   ハックスリー   ノディエ   モルガン   オスカー・ワイルド  アラン  ロブ・グリエ  アイアコッカ

アルヴィン・トフラー   ダニエル・オルテガ   ヴェラスケス   ルノアール   モディリアーニ  スハルト大統領  ローゼンベルク

マライヤ・キャリー   アルフレッド・クルップ   ヴィクトリア女王  シスター・ニルマラ  フィリップ・トルシエ  ジャニス・ジョップリン

イブサン・ローラン   エリアス・カネッテイ   マリー・クワント  オスカー・ニーマイヤ  カーダール・ヤーノシュ  フルト・ベングラー

アルフレート・クルップ   カール・セーガン  レイモンド・チャンドラー  オットー・ハーン  ジョニー・ワイズミュラー  アンドレ・ジード

アントニオ・サラザール   ジョージヤ・オキーフ   ミゲルデ・ウナムーノ   ベーブルース   スタニスラフスキー  ブルーノ・タウト

ローザン・ルクセンブルグ   アルフレート・ヴェゲナー  エドガー・バロウズ  エンリコ・カルーゾー  エミール・ガレ  ビクトル・ハラ

サン・テグジュベリー  チャールズ・シュルツ  スタンリー・キユーブリック  ジョイ・アタドムソン  メル・ギブソン  パスカル・プティ

マーク・マグワイヤー   マレーネ・ディトリッヒ   リタ・ヘイワーズ   ミリー・パーキンス   ヘディ・ラヌー   ブリジット・フォンダ 

ニコール・キツドマン   デルフィーヌ・セイリグ  ダテアン・キートン  ジル・クレイバーグ  シシー・スペイセク  ジエーン・ラッセル

シエリー・ウィンタース  サリー・フィールド  クリスティーネ・カウフマン  ギニー・スパルトロー アン・アーチャー ジエフ・ブリッジス

シンディ・クロフォード     リチャード・プライヤー     ピーター・グレイブス    デビット・ヘミングス    ジャン・ロシュフォール

ジェレミー・アイアンズ    イアン・マッケラム    ジエームス・ベェルーシ   カイル・マクラクラン     マーレー・エイブラハム

ウディ・ストロード  コン・リー  アレック・ボールドウィン   ロナウド   登小平     江沢民     宗子文    張学長   ピアジョ

R・ジェンキンソン

吉本隆明  後藤象二郎   武田信玄   黒田長政  北村透谷   岡倉天心   伊藤博文    島崎藤村   森鴎外   佐藤春夫

賀茂真淵   中江藤樹   勝海舟   葛飾北斎   北一輝   徳田球一   佐久間象山  棟方志功  小林多喜二  大山巌

出口ナオ   中山みき   御木徳近  大谷光瑞  伊藤乙姫  堀口大学  金田一京助  礼宮文仁  谷崎潤一郎  深沢七郎

中村元  謝国権  きんさんぎんさん  浜口庫之助  横井庄一  宮本百合子  丹羽文雄  佐木隆三  藤原弘達  高田賢三

コロンビヤ・トップ  徳富蘆花  永末英一 吉田満 金子滞広  加藤紘一  桜内義雄  黒柳明  金丸信  菅直人  桝添要一

野末陳平   赤瀬川隼   秋山清   西岡武夫   小田晋  池田裕行  山東昭子  江上波夫  富岡多恵子  有吉佐和子

山際淳司  中西進  小川国夫  高橋巌  浦山桐郎  いいだもも  小沢昭一  三好京三  古井由吉  三宅一生  大岡信

田中優子   柴田翔   大島渚   利根川裕  柳田邦男  黒木和男  淀川長治  橋川文三  今西錦司   かわぐちかいじ

三橋乙揶   渦巻竜二郎   斎藤龍凰   月村敏行  小松和彦  桑原武夫  松田敏雄  岡部冬彦  田辺茂一  久住昌之

村野守美   阿部進   森敦   吉増剛造   赤塚行雄   別役実  三遊亭楽太郎  安孫子ふじお  石津謙介  三浦哲郎

富永一郎   八木治夫  安藤優子  徳光和夫  大前研一  野中ともよ  森田美由紀  木村優子  蛭子能収  火野しょう平

本間ひろ志  立川志の輔  長門裕之  東海林太郎  植木等  三遊亭円丈  立松和平  田中邦衛  大友柳太郎  唐十郎

高橋三千綱  佐藤慶  林家三平  市川雷蔵  原田大二郎  志村喬  勝新太郎  柳家金語楼  大河内伝次郎  渋谷天外

有島一郎   三橋美智也   江原真二郎   北野武  ビートきよし  江戸屋猫八  いとうせいこう  明石屋さんま  高橋英樹

高倉健   浜田省吾   轟二郎   小室哲哉   野口五郎   井上洋介   武田鉄矢   元木雅弘  荻原聖人  国広富之

小林ヤスシ 浜田雅功 カールスモーキー石井 真田広之 さとう宗彦 日下武史 岡田英二  待田京介  森本レオ  中田ダイマル

小林旭  花紀京  笑福亭仁鶴 サンコン  オール巨人 反町隆史  稲垣吾郎 横山やすし 前田五郎 小堺一機  中田ラケット

岸田森   元木大介   荻原健二  武豊  みのもんた  大鵬  青木功  吉葉山  ユーリ海老原  桑田真澄  巨人ホワイト

山倉和博   衣笠さちお   古葉竹識   黒江コーチ  若花田  安田猛  瀬古利彦  瀬古夫人  加藤登紀子  中原ひとみ

岡田嘉子   浅田みよこ   池内淳子   杏里  小泉今日子  荻野目慶子  壇ふみ  倍賞美津子  越路吹雪  中山美穂

長山藍子   岸恵子   島倉千代子  中村メイコ  星由里子  松任谷由美  市原悦子  菊地桃子  橋本聖子  山田邦子

美保純   松崎えつ子   高岡早紀   小川真由美  山口小夜子  横井英樹  武見太郎  川島芳子  金賢姫  石井久子

永田雅一  ジミー大西  中西哲生  栗原理恵子  高見盛  中川家兄  氷川きよし  高円宮憲仁  河原雅彦  窪田空穂

上田三四二   高安国世   坪野哲久   前川佐美雄  佐藤鬼房  伊藤静雄  林谷豊  茨木のり子  重光葵  野坂参三

橋田寿賀子   崇徳天皇   後鳥羽天皇   伊藤左千夫   三好十郎   木村尚三郎  宇野弘蔵  岡本一平  池辺晋一郎

高木仁三郎   青木繁   福島瑞穂   尾崎放哉   鶴岡一人   矢野暢   荻原健司  辻政信  徳川慶喜  坂田三吉

上村一夫   春一番   原日出子   木村郁美   山咲トオル   窪塚洋介   平沢勝栄  小野伸二  徳田章  川久保玲

澤地久枝   井原高忠   前畑秀子   安井かずみ   浜崎あゆみ  ねじめ正一  三遊亭小遊三  高原駿雄  佐藤忠志 

宍戸開  山下洋輔  出川哲郎  真木蔵人  東野公治   山田雅人  吉岡秀隆  高島礼子  高瀬春奈  田中律子  千秋

丹阿弥律子   永作博美   比企理恵   日野てる子  水道橋博士  猿岩石有吉  ジャッキー吉川  竹内キ子  宮川花子

大沢隆夫   磯部勉   稲吉靖司  ドロンズ・大島  井上昭文  池乃めだか  たきざわひであき  今福将雄  ながさくひろみ

織本順吉   鈴木位置真   長嶋一茂   榎木兵衛   キリギリス・石塚  大鶴義丹  車だん吉  黒田アーサー  塩沢とき

曽我町子  奥菜恵  千原兄弟・兄  ハイヒール・桃子  増田明美  山下大輔  権藤博  鈴木尚典  今中慎二  武田一浩

野口茂樹   久慈照嘉   山辺太   ハッカミー  高橋智  前田智徳  柏原純一  森慎二  中島聡  下柳剛  片岡篤史

小久保裕紀   和田毅   高橋由伸  山本功児  松岡修造  こずえ鈴  白鳥英美子  阪神・下柳   ラミネス   宮田宏平

尾崎世燈彦  神太郎  宮本三郎  矢田亜希子  KABA ちゃん  山本昌邦  奥野健男  菅野美穂 野田義治 カリカ・林

スピードワゴン・井戸田   田上よしえ  ニブンノゴ・森本  バカリズム・升野 バッファロー吾郎・木村  緒方孝市

バッファロー吾郎・竹若
  内田恭子  井上和香  福島弓子  中川昭一



   偏財考察  

偏財性情の標語は「交遊談話」「収財巧妙」「開花褒美」「愛情奉仕」である。

身辺での同意を得られる言い方は「まるで恋愛するかの様に同性にも接す」「切れ目を見つけられない長電話」「ウマミのある話しが大

好き」「話しの彩で嘘も可とする」「大事の決定を身辺に依頼する」「愛情と功利が両立一致している」「同棲入り婿に適す」である。

生日の気の配置を、左上図「主客配置」に示す。

生日自我が外界世界を制圧、射止める図である。主客の陰陽は同極であり、前項の食神、偏印と同じく感覚感情身体に拠る像的イメ

ージを直観連結して、概念操作、思考する事を自らの本来性とする。

気の力の関係には生成と制圧の二通りあり、詳細は「魁ごう」の項に示すが、偏財は「制圧する」である。

食神、偏印
では「生成する、生成される」である。

この「制圧する」と云う関係を、図では「客体は主体と混ざらない」の意を込めて、漆黒の矩形に毛が生えた外界世界とした。

繊毛は感覚感情身体での接触を意味している。そしてこの制圧の主客の明瞭な境界域は、生成に比して、自我にとっては明瞭な肌触

り、「いまここ」の「現実感覚」を生み出すこととなる。

私は、この「自我が外界を感覚感情に拠って制圧する」という有り様を、「自我が外界を感覚感情に拠って射止める」と云い直す。

心に想いを込めて、人心を「射止める」のである。思考に拠って物事に対する場合は「規定する」となる。

「主客の大きい方に神がいる」との仮説は、偏財生日では信じるに足るものの在り場所は、自我の方にある事を告げている。

以下に偏財人物の思想哲学を訪ね、それが生日の気の配置に合致するか否かを見てゆく事とする。


 『偏財 シェリング』はカント( 正官) とヘーゲル( 劫財) を系ぐ中間位置に、フィヒテ( 傷官) と伴にいる。

シェリングと他の三者との大きな違いは、「直観」に拠って絶対的自我が現れるとする処である。

絶対的自我は神であるが、これが内面の自我の働きに拠って表れる。対象物を見て「ああソウカ」「コレダ」「当たる触りの感覚」大げさ

な様だが、意識にとって表象が浮かんでくる在り方は、「向う側からやって来る」としか云えないものである。特に関連性に飛躍がある

場合などは、新ためて自分に尋ねているのが人々の常である。

シェリングではこの「直」こそが絶対自我の現れとする処に、本人の力点がある。自我は大きさ価値において勝れ、自然は自我を持

たない発展途上のものと説く。感覚感情身体によるイメージ思考の、外界世界への規定力を絶対化する事、シェリングが「直」という

言葉に入魂したその全体像は、自らの生日の気の配置とその欲望接点、そして信に足るもののありか「ふるさと」の事を言っている。

しかしその後は発展途上のものである自然も自我として扱われて、「一切が自我である」という同一哲学に到る。

この時の自然は「連続的に働く活動性」生きた自然であり、「自然は見える精神、精神は見えない自然」と言い表される。

「直」の重要性は変わらず、自我活動の最高は芸術活動にあり、美の中で絶対者の啓示が開示されるとする。

なぜこうなるかはシエリングの記述する目線が、「美的汎神論」「客観的観念論」と言われる如く外側客観視点にあるからである。

肉体を飛び出ての仮想外側視点でイメージ思考すれば、出来上がった外側世界はツギハギされた像的物語となる。

からくも「対自」、意識が意識に向かって聞く、という自我基底からの糸は「直」の信憑に拠って繋がれる。

そしてそれは自我の気の配置、隔絶した外界に制圧の力を加えるという自我の方向性が、内省し自己内面を探るよりも、動く未明の標

的を射止める事に向かわせるものと思われる。

『後期のシェリング』は我意に囚われる暗い人間実存性、非合理な悪、悲惨な現実を思考の対象として、この根源悪を本質的に含む実

存意志と愛の意志の対立が、未来においては完全に愛によって統一救済されることをテーマとする。これが世に「実存主義の始まり」と

されるもので、また本人は自らを「ポジシブ積極哲学」と言い、「事実存在よりも本質を問う」ヘーゲル哲学を消極哲学と呼ぶ。

しかし「本質よりも事実存在」人間の真の実存は、客観視点では「対自」には届かない。

真の実存主義は別項「徹底対自」の偏官人物群が担うのである。


 シェリングから約百年を経た日本に『偏財 北村透谷』
が現れる。

透谷は世界を「実世界想世界」に区分し、実世界と「相渉り」、そして立て篭もる場所を「想世界」の恋愛に見る。

本人の経験則でもあり、そして自らの世界観を整理して、想世界における自我を「内部生命」と呼ぶ。

この自我に拠って「宇宙の精神」を「瞬間の冥契」直で受取ることを、人生の本義とするのである。

私には全くシェリングと同様に見えるし、毛の生えた外界接触面で絶対を規定すると言う世界観である。

「女性を愛し求めながらもひとたび結びつけば、今度はその女性が現実世界の拘束の代表者として出現する」という矛盾を、人間性、社

会観と文学観に照らして論じた「厭世詩家と女性」は、『偏財 島崎藤村の心底に身震いする感動を湧き起こす。

遍財自我はこう言ってている「私の直は間違っていない、ここには信じるに足るものがある、しかし永続しない、外界世界の全体が

発展途上にあるからであり、私は未来に賭ける」 と。


「人生相渉論争」では論敵山路愛山( 偏官) の「文章即ち事業なり」に対し、こう答える。「事業は尊ぶべし勝利は尊ぶべし、しかれども

高大な戦士はこのごとく勝利を携へて帰らざる事あるなり。彼の一生は別に大に企図する処あり、空を撃ち虚を狙い空の空なる事業を

なして、戦争の中途に何れへか去ることを常とするものあるなり。このごとき戦いは文士の好んで戦ふところのものなり」

シェリング同様「本質よりも事実存在」を外側視点からの理想イメージ像で言っているのだが、「相渉る」場合にはこの方が勝れている。

論点を外した様な、この言い方のほうが長い時間に耐えられる。

透谷は「文学界」によって日本浪漫主義思潮を牽引し、そして首をくくって、分身島崎藤村の小説の中でココロザシとして生きる。

透谷ー「恍視す 山川一様に 清し」の恍視は、とみること、「想世界」に入ること。 「恋愛道の躓石は江戸の粋道である」


 『偏財 ショフッベリー』はシェリングから約百年前に、食神ホッブスの利己説に対し「感じる力の優位性ー美的直覚説」を言っている。

表題「ロマンチック・リアリスト」は島崎藤村に附けられた異名である。


 『偏財 中江藤樹』の「孝」は宇宙万物の根源と一体の無限の徳であり、陽明学では汚れ無き心の霊明、その感応力で良知を得、こ

の良知に拠る知行一致を説く。


『偏財 賀茂真淵』は「万葉の心」と「自然の道」をもって、儒教の合理主知主義に相対す。門下には奥女中や娘たち多く、和歌や文学

を中心とした明るい自由な空気、四季折々に男女集まり歌合せの会アリ。


 『偏財 岡倉天心』を描く『偏財 大岡信』ー五浦六角堂に泊り込み「ワカッタ、だるい、天心の心もこの気分だつたのだ」


 『偏財 ラカン』
の心理学を、フロイトの生命体モデル思考を考慮に入れながら以下に見る。

ラカンは世界を「想像界と象徴界」に区分する。後に「現実界」を加えるが、この現実は偏印サルトルの物自体である、マロニエの樹根

と同様の知の及ばぬ世界である。想像界は母との関係の世界であり、自我がイメージに拠って立て篭もる世界である。象徴界は父の

世界、意味の世界であり自我はここでは主体となる。

フロイトへの回帰を宣言し、フロイトの説を記号学とつき合わせ、『偏財 ピアジョの児童心理学』と同様の事実存在を追う視点には、全

体としての「生命体思考」の拡がりは無い。拡がりは幼児がイメージを継ぎ接ぎしながら自我をブロック積みしてゆく想像界と、社会的

言語の秩序世界である象徴界の調和不可能性
にある。

生命体モデル思考は初期の「幼児期の
鏡像段階」を生物の「擬態」に重ね、「イメージ理論」を説く処にある。鏡像段階はフロイトではナ

ルシシズムであるが、ラカンは外側イメージの自己同一化とする。この
「イメージ理論」
でパラノイアそしてシュールレアリスムを言う。

自我の欲望外側イメージを写し、系統全体化してゆく過程そのものであるが、必ず欠如を伴うとする。これはイメージ思考が言語で

意味規定できない事、ソシュール( 偏財)
の言語学が「差異の体系」しか導けない事と符合する。外側視線の記号論の限界がそのま

まラカンの、幼児の内面に当てた偏財の「ふるさと」になっている。


記号論三人組『偏財 パース ソシュール ヤコブソン』ー言語を要素に還元してそれを形式化する方法

パース ー一切は記号である」「人間の思考の初めには、何ものにも拘束されない認識が在るとする事を否定し、まず何かを指す記号

      が表れ、それを別の何かを示す記号に変換することが思考である」

ソシュール ー「記号表現と記号内容の二面性をもつ心的実在体と言語記号を定義」「記号の恣意性、否定的で示差的な価値体系性」

        「言語学のなしえる事の空しさがわかった」「晩年ニーベルンゲンの詩以下、シンボルの直観読み解きに向かう」

ヤコブソン ー「詩法および詩句の分析」「失語症と言語の機能の類似性」「言語の六機能 - 心情的 - 関説的 - 詩的 - 交話的 -メタ

        言語的 - 動能的」「テーマはつねに周辺へ」「音韻論」基本母音と子音の三角形は幼児の事実世界を根拠とす。

補足で吉本隆明(偏財)の「言語にとって美とはなにか」ー言語を自己表出指示表出に区分して芸術を説く。ソシュールのシニフィア

       ン( 聴覚映像心的刻印等の意味されるもの)シニフィエ( 概念、意味するもの)と似るが、言葉の「対自性」と「対他性」
であり

       言葉を睨んで内面を「対自」と「対他」におけば、これら区分は自然に表れる。偏財は「対他」世界での客観証明を試みる。

ラカンをもう少し云う。「ラカン臨床の特徴」ー「患者に知識を提示しない」「知識を提供することは欲望の次元を打ち消す効果しかない」

「欲望 X は消去されるのではなく操作され続けなければならない」「これが精神分析の倫理である」

知識は整理の言語で出来ている。身につかない知識は権力となって感覚感情身体を攻撃する、一方知識が時と場所を得て内面の系

統を結節させる時、感情は持ち上げられて共感域に至る。これが医者への「転移( 愛の対象化) 」である。

「欲望 Xを操作し続けること」「隠しつつ誘うー眼差しの欲望」は、「まるで恋愛するかのような愛情奉仕」という感覚感情身体で外界他

者を射止めるラカンの「ふるさと」からの自然行為なのである。おおよそ内面整理の知識が権力となって感覚感情身体を反感域に下降

させるのも、ラカン自身の身体のことを言っている。

ピカソ( 偏印)との相性の良さでカウンセラーでもあつたラカンにかぎらず、偏財性情は身辺周囲を共感域に引き揚げて廻る、原生動物

でもあるのである。ラカンを含めて「記号言語学」には、「芸術イメージ言語」を「客観」で実証せんとする意図が含まれる。


十年程前の新聞コラムの『偏財 蛭子能収』ー「私のような、他者に対しての円滑さに気を使うタイプには共同体が助成金を出すべきで

ある、おおよそ一年間に百五十万円位と思う」ー 金額の見積もりに全直観を賭けている。ここには本人のウンチクがあるはずである。


『偏財 ベンサム』ー「道徳と立法の原理序説」は「功利の原理、最大幸福の原理、最大至福の原理」と言われるものを説く。

世に「幸福主義」といわれるものである。「われわれが何をしようと、何を言おうと、何を考えようと、その全てにおいて快と苦がわれわれ

を支配する」一方「もろもろの真理は数学のごとき厳密な、そしてすべての比較を絶するほどに、より一層綿密で広範な研究による以外

では発見されることはない」という意気込みで「快苦の測定」を主張する。

「行為の結果における、快苦の量的差し引きで善悪を決定する」ことは動機の善悪「理念」を捨てて、心理の計量値が社会基準となる

事を意味する。値段の未定な絵画は取引成立に拠って値が決まる。

これを支えるものは「心理の計量化」の精神である。資本主義市場経済での「物象化」の精神である。

経済の精神で立法の原理は言いえない。北村透谷の言葉に直せば実世界」に「想世界の原理」は未だ無理がある。

しかしこの「快苦の測定」の意気込みは、以下の偏財人物にも共通して、「確信ある自我がイメージで外界を射止める」という形が、整

理のつかない、実証性への意気込みを生み出す結果となって現われる。


 『偏財 フーコー』
の「外界に拠って規定された主体」というのは、前述ラカンの「象徴界での主体」社会規範内での自分であり、この主

体が時代の知的状況( エピステーメ) に拠って形成されている、まさにこれこそ、そのシンボルだと思われる現場を「瞬間の冥契」直観

で押えてゆく
。それが「ボッシュの絵」「中国の百科全書」「ベラスケスの絵」「マグリッドの絵」「パノプテコン円形牢獄」「告白箱ー性の

装置」であり、多くがラカンの「自我のある想像界」での芸術作品である

ここにはフーコーの思考の方法と順序が露出しているし、社会を様々な言説を生む権力の配置と感じ、内面に微細に介入してくる権力

に敏であるのは偏財の本来性である。

「フーコーは権力という言葉を心理的抑圧の範囲までに拡げた最初の人ー吉本隆明( 偏財) 」

ベラスケス( 偏財) の絵に感応するのは
、自我の在り方と直感する身体が同一だから共振するのだし、パノプテコン円形牢獄を立案建

設したのも同じ「ふるさと」を持つ
( 偏財) ベンサムである。

ベラスケスの時代「バロックはアレゴリーたとえ話の時代ー( 印綬) ベンヤミン」なのであるから、絵解きの結果に異論は無い。

「構造主義者
ではない」とフーコーが言うのは「細部から全体にいたる隠された合理性を見出すものではなく、隠された心情の物象化の

端緒を見出すものである」ということである。

「実証的」ポジティブの語意には「積極的」「肯定的」「陽性の」そして「自信の強い」がある。

自我の方に神がいるという偏財の「自信の強い」主客配置が、実証性へ確信、意気込みになつて現れる、が偏財の芸術身体には整

理言語の系統に信憑はない。理念を信じての系統思考を構築しない。
実証性への意気込みは実世界に届かず、挫折する。

この私見を「限界体験と批評 1972」( 印綬 蓮實重彦著) に援護してもらう。

「ベラスケスの鏡に王の不在を言うのとおなじパターンで、俗に言う構造主義手続きで何時実証主義へ滑るかもしれない緊張感をあた

りに波及させて、実はただ宙吊りの状態としてしかない眩暈とともに、劇場としての教室と図書館を往復する。その教室はコレージュ・ド

ゥ・フランス第八番教室といい、ヴァレリー( 偏財) が第二次大戦中に一人も聴衆が来ず、一年に十二回の授業をやるのみの、帰る事を

望みながら続けた場所である。1971年現代の国家機構への弾劾の言葉を期待するが、フーコーは十七世紀の排除体系の分析から一

歩たりとも離れない。熱のこもった授業が拍手で終わり人々は徹底した無償性に、眩暈をおぼえ宙吊りの自分に耐える。フーコーが提

示したものは二つの概念が取り結ぶ瞬間の関係であり、知識として啓示される真実とは程遠いものだつた」「・・・知的汚染に一役買っ

ている」「何も産まない実証的身振り、手振り、見栄、啖呵の修辞方法・・・・・・・・・等々」


直観による概念が並列されて、トータルな結論に収斂しないのである。


 『偏財 唐十郎』が黒板をぶち抜いて現れる事だけに腐心する、特別講師の
授業風景をおもいだす。



 同書は『偏財 ロブ・グリエ』ー「去年マリエンバートで」のヌーヴォー・ロマン作者についても語る。

「ロブ・ブ・グリエの場合その文章体験は、ある種の曖昧さのすぐ裏側に、ごく平坦でありきたりな、幾つかの紋切り型のイメージを捕ら

える事から始まり、その象徴はその背後に象徴性しかなく、ぶざまに裸の姿を露呈する」「ロブ・ブ・グリエ的世界では、真理とは無縁

の嘘言
と詭弁と捏造の世界に宙吊りにされてしまう」「深さの廃棄されたこの世界では、テーマとテーマはお互い照らしあっているだけ

で、如何なる未知な点へも導くことはない」映画好きの著者は、あまりにも紋切り型である事がこの種のイメージ連結法への批評となっ

ている、と援護するが別章のインタビューでは、ロブ・ブ・グリエ自身が言っている。「私の映画に新しい意味を観る者が付けてほしい、

それも意図してつくっている」 

「自信の強い」自我は外側世界を実証的に直感で「射止める」、射止めはするが自我に向かって系統しない。


 『偏財 森鴎外』
の「空車( むなぐるま) 」に、新しい小説を書く( 偏印) 漱石のように深く悩めない、鴎外の苦悩があると 「永遠と亡び

ゆくもの」桶谷秀昭( 正財) 著は言う。


「 逞しい馬に繋がれた 空虚な車が大道狭しと緩やかに行く 馬の口を取る霊のような傍若無人な大男 私はこの空車が何者かを載

せて行けば良いと思わない 」「 或物を載せた車との優劣も論じない 」「 或物がいかに貴き物であるにもせよ 」

系統化しない鴎外自身の自我の喩とされるものだが、ここでもシェリングと同じく仮想外側視点からの客観イメージ像になっている。


『偏財 ヴァレリー』の
「テスト氏との一夜」の自我の位置も外側視点である。自我はテスト氏であり、作中の私はそれと対話し考える。

実世界との対決は「内面の島」を築く事、立て篭もる「壁」を汚れ無きものとする事、あらゆる対象を知的に分析思考する事、思考の零

地点に帰る事。「壁」を汚れ無きものとする事は陽明学の原理である。

「形而上学の真の欠点ーそれはどれ一つとして非常に性格な質問に正確に答えていないからである」 統合し原理を持つ哲学を批判

する。信奉するはデカルト(( 正財)のみで、スピノザ( 正官)カント( 正官)パスカル( 正官)ニーチェ( 傷官)を受け付けない。

「彼はあらゆる物事について彼の知的活力と欲望の宝を開発しようとし、その他ものは望まない。そこにこそ原理があり、これに対しは

聖書さえ優位にたちえない。それは戦略上の要点であり、デカルトの位置の鍵である」実世界での戦略に哲学を考える。

「この方法序説の中に彼自身がたしかに存在していると云う事、あえて言えばジョとモアとの試用であり、人間の声の響きである」

ジョとモアは「私を見ている私」と「それを見る私」の区別と言う、客観視点である事には疑いない。

夢の幻想かもしれぬと懐疑する自分、フッとこれを考えている自分がいるではないかと思う、外側視点のデカルトのコギト、考える自分

コギトの奥に自我は確信される。デカルトは偏財のヴァレリーと気の配置を同じくする正財である。正財は「確信ある自我がイメージで

外界を射止める」
偏財とは異なり、「確信ある自我が整理言語で外界を射止める」のである。

「カイエ」はあらゆる分野の、二十年間の膨大な量の研究手帖である。知の探求に拠る人間形成、その模範とされているものである。

ヴァレリーは一方ではマラルメ( 偏印)につづく象徴詩の詩人であり、コチラが本来の偏財「ふるさと」なのである。

     「単なる風でないとしたら 誰がそこで泣いているのか 遠い最後の金剛石しかいないこの時に ・・・泣いているのは

      誰なのか いまにも涙しそうな私自身のすぐそばで・・・・・」

厳密なる分析が統合され更なる抽象域が現れる、と云う事の無い、意気込みの勝る実証主義を更に追う。


 『偏財 ゾラ』「ルーゴン・マカール叢書」20巻は、十五歳で精神病院で死んだ女主人公
の子孫の物語を、性格,行動を遺伝と環境の

科学的説明で描き出そうとするもので、密猟密輸を商いとする劣性遺伝子はアルコール依存、精神病、性格破綻に関係させ、下層の

階級として描く。科学への信奉が いき過ぎている。


 『偏財 ディルタイ』の個々の生を、記述的分析的心理学によって取り出し、次に解釈学に拠って社会との構造的関連を解明するとす

「精神諸科学序説」も、話がでかい・・・全部である。


『偏財 スタンダール』
には「対自」主観に聞き、その場所からの感覚感情表現が「エゴチスム( 自己中心) 」の方法と云う、意気込みに

なっている。五十歳で自己認識の場所を自己中心に見つけるのである。自己中心に探るものは「感動」
であり、「熱狂的ロマン主義者」

であり「結晶作用」を説いた「恋愛論」体験の過去を振り返る。

生涯現実に対しては透徹したリアリストと言われるのは、気の集中点が自我が射止めた外界の接触面にあるからで、これが意識に客

観外側視点を取らせるのである。

この意識の位置からは自我中心へは力の方向は逆向きとなって、食神人物と同様に内省による自己確認を困難なものにする。

「小説とは往来に沿って持ち運ばれる鏡である。それは諸君の目に青空を映して見せるときもあれば、道路のぬかるみを映して見せる

ときもある( 赤と黒) 」時と場所を選んでの、客観イメージの想起を得意とする。


 『偏財 吉本隆明』
は読書の体験から云っておく。

その本の本当のモチーフは判らないまま進んでゆくと、ある思考の段階で新しい造語概念が結晶されている。この新概念を私自身に当

ててみる、「自立」「不可避」「遠隔対象性」「自己表出」「共同幻想」「自己幻想」「対幻想」「往還」「差異」「関係の絶対性」これらが私の

内実に即す時、その概念を使ってそれが磨耗するまで、抽象の度合いを吊り上げられて生きるのである。

上げられた境域はより広い視野の効いた共通空間域なのである。その清しい領域でのエサというかゴハンなのである。「内実に即す」

という処が「いまここ」の実存身体で捉えられた、直的な思考によるものであったと、今になって思う事である。

あらためて眺めてみるに、そういえば概念ばかりで、理念に当るものは無い。私はこれら受取った概念と、私の内面整理のための何ら

かの理念らしきものとの接触を望んでいた。刺激されて整理を繰り返すなかに、納得する理念「この考えの方向さえあれば何とか生き

られる」という、そう云うものとの接触を望んでいたのだが・・・・・・。

しかしナニが吉本隆明に「自己表出ー指示表出」「自己幻想ー対幻想ー共同幻想」という、「対自」からの世界視座を可能とさせたので

あろう。遍財の実証精神は「確信ある自我」が客観視点から、外側世界を射止めるのであるが・・・・。

今だから言えるが、「大衆の原像」で大衆の声なき声が「全学連は生ぬるい」と言っている、とは到底思えなかった。

「思春期に年上の女性に可愛がられる必要」というのは信じない。

「胎乳児母親決定の論」には「ゾラの決定論」と同じく従えない。

「言語論の中での言語以前の設定」は無理である。

「芸術批評での百人が無限回読んでたどり着く一致点の想定」は偏財の性情として是認する。

「心的現象論」のなか心的事象を X Y 軸にプロットする精神は「心理の計量化ーベンサム」である。

「井の中の蛙は井の外に虚像をもつかぎりは井の中にあるが、虚像をもたねば井の中にある事自体が井の外につながっている」という

方法は「思考を対自に繰り返し系統しておけば、その事自体に誰にも通じる共通がある筈だし、一般性に席を譲ってはイケナイ」

と読んだが、「自立」と併せての「外来思想に肝を抜かれず、自前で考える」が本意であつた。

「自己表出」「共同幻想」は個人史「戦争体験」からの反省、終戦までを「本当にお国のために死ぬものだ」と思って生きた自分(客観視

点)を基点に置けば納得できる。「言語にとつて美とはなにか」の言語観が記号言語観と、世界を異にする由縁でもある。

「社会は共同幻想でできている」イメージ屹立して、われわれの思考抽象域は吊り上げられる。


 『偏財 三好十郎』 
「万葉・生きる事を愛す」 「浮標」ー「人間死んだらおしまいだ、生きている事が一切だ、いきていることがアルフ

アであり、オメガだ」ー反知識で偏印の清水幾太郎に反駁する。

吉本隆明は
テレビの中で「三好十郎を高く評価し、この清水幾太郎へのやり方を丸山真男( 偏印) 批判使った」と言っている。

これら偏印と偏財の相性は「偏印は偏財によって感情アッブして良化される」であり、気の相性から見ればこれは出来レースである。

「丸山は市民の私欲を政治無関心として否定するが、まったく逆で、この基底を是認する事の他に進歩はない」

「これらの人々が全学連を支持する、全学連はなまぬるいという、声なき声として安保闘争を支える基底をなしえた」というものである。

近著での若者へのメッセージは「自由」と「幸福」「競争に乗らず」「高等遊民」を目指せと言っている。

「ハイ・イメージ論」「マス・イメージ論」からが、偏財の本領発揮の時期なのだが、私には読めなくなった。


偏財の主たる相性を云う。

   偏財は食神により実利を得、食神がこれを消費する。

   偏財は偏印を共感に引き揚げ、場所花やぐ。

   偏財は偏官と結ぶが偏官の自戒増えて破局する。

   偏財は比肩につまらぬ競争心で破壊される。


以後は私の書込帳から抜粋。


『偏財  マリー・クワイトーイブサン・ローラン三宅一生高田賢三川久保玲ー石津謙介
 のファツションの「花やぐ」系譜


『偏財  柳屋金語楼渋谷天外中田ダイマル中田ラケットコロンビア・トップ笑福亭仁鶴花紀京前田五郎

      ー
横山やすしビートたけしビート
きよし明石屋さんま山田邦子浜田雅功 』
 のお笑いの系譜


『偏財 武田信玄』は
『偏財 勝新太郎』主演だと映画 「影武者」で蘇えっていた。偏財は偏印の黒澤明監督を懐柔出来た筈である。

 勝新の
平面的で花やぐ感じが、
比肩の仲代達矢の立体感で、ドキュメント映画になってしまつた。 007 ジエームス・ボンド役を偏財

 ショーン・コネリーがやる場合と、比肩
ロジャー・ムーアがやる場合の違いである。

    ・・・・「大ていは 地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」・・・・武田信玄


『偏財 ウォルター・マッソー』『偏財 デビット・ニーブン』 は「目」で話す。


『偏財 フ゛レヒト 』 ー 科学時代の唯物論思想を教化する、実践知識を伝えるとする「叙事的演劇論」は異化効果( 筋を中断する異物

挿入) をこう述べる。

「なじみない驚くべきものにすることで、観客の感情移入が妨げられ、観客はこれを歴史的なものと認識し、また世界は変容可能なもの

と思うのである」 また「偉大な芸術は多大な利益を生む」 「まず食べていける事、モラルはそのあと」 「ボクシングファンで盗作と追っか

け女含めての女たらし」とある。異化効果はバルト流が方法論となったものである。



偏財 佐木隆三犯罪者への実証意欲は実り少ない。が、( 正官) 福田和子の真面目さの評は本文見解と一致する。ラカンの「決

定せず付き添う」心理学をやっている。



『偏財 川島芳子』ー東洋のマタハリ、  『偏財 金賢姫』ー大韓航空機爆破工作員、  『偏財 石井久子』ーオーム真理教の女神、

『偏財 ダイアナ妃』ーアラブ富豪との恋 、 ・・・これら歴史上「実世界」の事件と、各「想世界の住人」人物のイメージギャップ。

加えて『偏財 横井英樹』ー「精 神 誠 意 セイシンセイイ」とハンドマイクで走り回る、ホテル・二ユージャバン火災の関連映像。

『偏財 マルコス大統領』ー「大統領どうか出撃命令を」「イヤだめだ 国民を殺せない」 フィリピン民主革命の関連映像。


『偏財 登小平』ー『偏財 金丸信』ー『偏財 江沢民』ー『偏財 ドイモイ』 の経済「幸福主義」路線。


偏財 月村敏行』の再起をかけた評論に( 傷官) 江藤淳が、主旨屹立しない感覚感情思考に時間の無駄を仄めかす対談があった。


『偏財 尾崎放哉』ー「妻が留守の障子ぽっとり暮れたり」「犬が覗いて行く垣根にて何事もない昼」「マツチの棒で耳かいて暮れてる」

「ただ風ばかり吹く日の雑念」「酒もうる煙草もうる店となじみになつた」「灰の中から針一つ拾ひ出し話す人もなく」「ころりと横になる今

日が終つて居る」「海が少し見える小さい窓一つもつ」「淋しい寝る本がない」 − 酒と作句、四一歳 小豆島にて死す。


『偏財 深沢七郎』
ー恩師正宗白鳥(劫財)の死去を家人に「オイ正宗白鳥が死んだよ」「恩義は借金と同じく心の負担になるからホッ

 とする」・・・・・「楢山節考」の母への「孝」も中江藤樹と同様に本心、これらは両立するのである。


イメージに関するカント( 正官) の意見』


 「イマジネーション( 構想力) は思惟と直観の総合によって、図式として範疇の演繹に拠って直観イメージされる」


『偏財 ヘルダーリン』
ー ヘーゲルとシェリングの友人、そしてハイデガー「詩人の詩人」「存在が露出する詩の詩人」ルカーチ、アド 
 
 ルノ、ベンヤミンも傾倒す。 26歳から 30歳まで家庭教師宅の夫人との恋愛、逢びき 「沈みゆくがよい美しい太陽よ・・・・・」

 二年後の夫人の死から精神を病む、 66歳で「ヘルダーリンの生涯・詩作と狂気」が出版され、 73歳死去。


『偏財 ルノアール』
ー「わたしはひたすら心地よさを求める」ー色の共感幸福主義


『偏財 葛飾北斎』ー「人魂で いく気散じや 夏野原」ー「文読美人立姿図」のエロティシズムと、「北斎漫画」と「富嶽三十六景」を結

べば、汚れ無き心の霊明陽明学」への道が見えてくる。


『偏財 後鳥羽上皇』 ー 「わが恋は 庭のむら萩 うら枯れて 人をも身をも あきの夕暮」 − 権力闘争「承久の変」に敗れて、「想世

界」への一代事業に命を架ける  ・・・・・・・「新古今和歌集」成る。









       「こひびとよ 丘のうなじが まるで光ったやうではないか 潅木の葉が いっせいにひるがえったにすぎないのに」

                                                      『 偏財  大岡信
 』






                                                参考 葛飾北斎ー文読美人立姿図