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偏官
 へん かん

じつ  ぞん  しゅ  ぎ       けい  ふ
(白部は主体を示す)
主 客 標 示
標語 「義侠勇断」「急成顕達」「権威腹芸」「親分子分敵味方」
実存主義の系譜

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13

      偏官人名リスト

モンテニュー   バークリー   キルケゴール   ハイデガー  カミュ  エンゲルス  ヤスパース  ソロー  ヴィトゲンシュタイン

ケインズ  デブリン  メルロ・ポンティ  E・A・ポー  フォントネル  ワーズワース  エドモンド・ゴンクール  アルフォンセ・ドーゼ

ミュッセ   バルザック   ハンスリック  リカードゥ  アダム・ミッキェビッチ  ベルンシュタイン  リースマン  カール・メンガー

ヴェルレーヌ    J V ・ロビンソン    ラヴェル   シューマン   ランケ   ケナン   バフチン    ウッディー・ガスリー    ゲーデル

ミルトン    ベイトソン   ハワード・ノーマン    メリメ    ジョン・コルトレーン  ダニエル・ベル  ビル・ゲィツ  アル・カポネ

ラインポルト・メスナー  ジョージ・ブッシュ  コナンドイル  ジャツク・ロンドン サリヴァン先生  ケア・ハーディ  マーク・トウェイン

ジョン・ワトソン  ニールス・ボーア  ヨーハン・ホイジンガ  ヘルマン・ロールシャツハ  ホルヘ・ボルヘス  セルゲイ・エセーニン

シュテァン・ツヴァイク    溥儀   ルドルフ・カルナップ   ニコライ・トゥルベッコイ   エヴァ・ブラウン   ロベルト・ロッセリーニ

チック・ヤング   聞一多   ウィラード・リビー   EH・カー   ヴィトリオ・デシーカ   ジョセフ・ニーダム  レナード・ンスタイン

フランク・バーネット ウィリアム・バロウズ  マティス  ボロック  ジョーン・バエズ  マリア・プリセツカヤ  アート・ガーファンクル

アミルカル・カブラル   ラビン・イスラエル首相   ブレジネフ  シアヌーク  毛沢東  ロバート・ケネディ  金正日  サムファン

サイババ  キッシンジャー  ラムズフェルド  ロウラ・ブッシュ夫人  クリスト  カルロス一世 ジョルジュドン  メリナ・メルクーリ

レスター・ヤング  クニオ・ナカムラ  チャウセスク  テロリスト・マルロス  ジョンソン副大統領  カル・リプケン  ベン・ジョンソン

ベナジール・ブット首相   ベアトリクス女王   ゲイリー・プレイヤー  ジャツク・ニクラウス  ナポレオン三世   ライアル・ワトソン

ハンフリー・ボガード   ジョン・レノン   リンゴ・スター   マク゜リット  アンソニー・クィーン  ジャン・マレー   ジャン・ギャバン

グレコ   キムノバック  モニカ・ビッテイ   オリビア・ハッシー   エマ・トンプソン  エイミー・アービング  レベッカ・デモーネイ

リンジー・ワグナー   メリル・ストリープ   メラニー・グリフィス  メッチェン・アミック  エリザベス・マストラントニオ  ミュウミュウ

ミミ・ロジャース  マルテーヌ・キャロル マーゴット・キダー  スザンナ・ヨーク  テイタム・オニール  シエール  ジーン・アーサー

サラジェシカ・パーカー   コニー・スティーブンス   キャンディス・バーゲン   リュー・エマーズ  ラフ・バローネ  マイケル・パネ

ブルース・ウィルス   バルキ・ルマー   ハーベイ・カイテル   デヴィット・ボーイ   シルベスター・スターロン  ジョン・リスゴー

ジョセフ・コットン   ジャン・クロード・ブリアリ   ジム・キャリー   ジェラール・フィリップ  ジェームス・ウッズ  キアヌ・リーブス

アテディ・ガルシア   ロレッタ・ヤング  ヤマニ石油相  蒋経国  クララ・シューマン

最澄   伊藤仁斎   山鹿素行  大久保利通  乃木希典  徳川家康  天一坊  豊臣秀吉  頼山陽  近藤勇  沢庵和尚

徳川秀忠  山路愛山  宮城道夫 滝沢馬琴  横山大観  高橋是清  横光利一  長谷川如是閑  西田天香 南原繁 白隠

内藤湖南  南雲忠一  中里介山  平沢貞通  遠藤誠  佐藤観樹  森英恵  吉武輝子  宮崎駿  安江良介  柳沢伯夫

西澤潤一 寺島実郎  柏木博  船戸与一 小池隆一 吉田勇一 野口悠紀雄 江川紹子  田中直紀  山本寛斎  佐藤鬼房

金子みすず  徳田虎雄  マリナーズ・長谷川  森岡正博  岡田啓介首相  川端康成  高橋竹山  田中清玄  平林たい子

成田知巳   田中真季子  細川隆一郎  春日一幸  江田五月  河本敏夫  大川博  宮本顕治  木村京太郎  鳩山一郎

大社義規  堤義明  海部俊樹  柿澤弘治  大内啓伍  村上一郎  竹中労 黒田喜夫  山本薩夫  鈴木永二  鹿内春雄

澄田日銀総裁   村上陽一郎  養老孟司  河上和雄  猪瀬直樹  平野謙  加藤周一  仲佳子  山田耕筰  宮尾たかし

山藤章二  中島らも 松永有慶  五味康祐  土方巽  円山雅也  吉田照美  神吉拓郎  田中康夫  遠藤周作  橋本治

山上たつひこ   川上宗薫  小松左京  さくらももこ  江川宇礼雄  井上光晴  柳美里  青島幸男  曽野綾子  篠原勝之

吾妻ひでお  小林よしのり   黒川記章  安藤忠雄  鈴木いずみ  河上和雄  安部譲二  毛利衛  八代英太  福島敦子

草野仁   向井千秋  浜尾朱美  兼高かおる  森田正光  白石冬美  コシノジュンコ  夏樹静子  井上嘉浩  村井秀夫

北野・富士見院長   笹川良一  亀頭史郎  土屋善彦・知事  山口智充  笠原和夫  三国怜子  山口青邨  野見山朱鳥

細見綾子   山口誓子   中村草田男   岸上大作   香川進   吉野弘  渡辺直己  上林みち夫  桂枝雀  内藤啓史

杉尾秀哉   山田五郎   福山雅治   阪神・井川   吉田拓郎  水谷豊  金子信雄  宇津井健  多々良純  子門真人

久里洋二  前川ひろし  友部正人  ズウトルビ・新井  山田隆夫  尾崎豊  草刈正雄  竜雷太  グレイト・義太夫 山頭火

三船敏郎  三国連太郎  笑福亭松鶴  宇崎竜童  浪花千栄子  緑マコ  加藤和彦  坂上二郎  谷岡ヤスジ  松田優作

志垣太郎 中井貴一 天地茂  鳳啓助  笑福亭鶴瓶 マーク・パンサー  役所広司  西川のりお  坂東妻三郎  若山富三郎

加藤茶   山形勲   松本人志   柄本明   近藤真彦   時任三郎  島田洋七  島田洋八  進藤英太郎  オール・阪神

草g剛   京本政樹  マルセ・太郎  張本勲  長州力  村山実  山本浩二  尾崎将司  山内一弘  バース  吉田義男

中日・小松   中日・都   マニエル   郭源治   山本和行   上田利治   高木豊  原田美枝子  堀ちえみ  伊藤咲子

林葉直子   藤田弓子   早見優   伊佐山ひろこ  石原真理子  小山明子  蓮舫  池上季実子  西川峰子  市毛良枝

芳村真理  由紀さおり ザ・ピィナッツ 楠田枝里子  山本陽子  原田知世  岡崎友紀  大橋純子  牧瀬里穂  緒川たまき

手塚さとみ   桑野みゆき   森光子   高橋洋子  川島なおみ  加藤和子  松本小雪  大地真央  乱一世  大友康平

ケン・コスギ   ぼんち・おさむ  矢崎滋   綿引勝彦  マルシヤ  阿藤海  川野太郎  パンチ佐藤  ラモス瑠偉  梅津栄

雨上り・蛍原   安岡力也   岡田武史   中丸美千潤@  イジリー・岡田  榎本加奈子  植田芳暁  大石吾朗  くず哲也

高橋長英   竹野内豊  麻丘めぐみ  安倍里葎子  上月晃  柴山智加  新藤恵美  菅井きん  鈴木紗理奈  高見恭子

富士真奈美   山咲千里   藤田まこと    つんく   サマーズ・大竹   菅原孝  蔵野孝洋  ブーマー・河田  松本キック

海老名香葉子   優香   清水隆行   巨人・ガルベス   横浜・ローズ   荒井幸雄   中山裕章  立浪和義  三沢興一

山内泰幸   弓長起浩   大豊泰昭   杉山賢人   松井稼頭央   シユール・ストロム  西村竜次  上原浩治  黒江透修

はなわ   稲葉浩志    深津絵里    富永太郎   江國香織  FUJIWARA・原西   アメリカザリガニ・柳原  

ハリガネロック・松口
  加護亜依  後藤真希  尾立源幸  千玄室


       偏官考察  

偏官の標語は「義侠勇断」「急成顕達」「権威腹芸」「親分子分敵味方」である。

身辺での言い方は「長い時間をかけて友人ができる」「衆人の前で空騒ぎしない」「自然状態で腹を括った観あり」「男と見込まれると

金も貸すイヤ命も賭ける」「水滸伝梁山泊の見込みミコマレ世界観」である。人間の持つ最低の性情がこのタイプには含まれ、そこから

の極端な飛躍も現われると四柱推命は説く。腹の中に動物的性情を抱えているのである。

本生日の気の配置を云う。

外側世界生日自我を「制圧」し、その陰陽差は「同極」である。左上図に「主客配置」を示す。

白色自我は漆黒外側世界によって「制圧される」

主客の陰陽同極は、感覚感情言語身体に拠る、像的イメージ物語を想起させて世界と関係する。これは全項を通しての仮説である。

「制圧される」関係は、図で「客体は主体と混じらない」の意を込めて漆黒の矩形とし、この外界世界は自我にとって明瞭な場面意識「

いまここ」の「現実リアリズム」を生み出す反面、主客全体の系統観は無い。

接触面の繊毛は感覚感情身体での世界との関りを示す。

以上の関係は
同じく「制圧される」正官の主客の陰陽差が、異極から同極に変った世界である。

正官の「制圧される」自我が「良識正道」「人倫道徳」を価値とする世界観を持つ処、偏官は「義侠勇断」「親分子分敵味方」という感

覚感情身体の届く範囲での「自戒 自己規範」を産み、非知の「漆黒の外界世界から実証される」ように生きる。

感覚感情身体が受け取る外界世界からの「制圧される」リアリズムは、「痛さ」「恐怖」「復讐心」という極限感覚感情を身体化し、

上図の繊毛は外界世界からの刺と化して「義侠の精神」を育てるのである。

「義」とは自らが義しとする心根であり、心情の条理が満足される事を希求し、「個別 単独性」が死の瀬戸際心境で「生き方の典型」

普遍界に向けて片道発信する、一筋の光である。

「心情の条理」とは心情の「貸借対照表」であり、「気が治まる」事を以って決算するもので、世界をさぐるセンサーである。

本文仮説の「客体が勝る場合には自由では無く、平等の理念を愛す」から偏官は平等を愛し、「売られた喧嘩」「幼少年期の心情、二

つ叩かれたら先に叩かれた分を貸借させて三つ以上お返しする」「弱きを助け強きを挫く」に強く反応する。

「極限状況思考」は「極端の道 極道ー任侠道」とも、心情において紙一重となる。 

整理言語に「信」を置く正官に対し、感覚感情で刺ある漆黒世界を進む偏官の場合、最初の外界「他者」が強く「好き嫌い」で、意識に

対し向こう側から直観「信」を告げ知らせてくる。「敵味方で群れ分け」して進む偏官人生の始まりである。

「人を見込み、人に見込まれ」「魂胆を見抜き、見抜かれ」「男が男に惚れる」という論理の届かぬ、偏官の感覚感情センサーによる「

人間を観るアート」の精神は挫折を繰り返し、その経験を肝に銘じながらジグザグと進む。

仏陀の説くこの世は「苦の海」である。

そしてその生まれ出る条件は「無明」という、コトワリ「理」の知られぬ非知である。

まさに非知の外側世界に「井の中の蛙」
として在る、偏官の世界観を云っている。

本文の主旨は哲学思想の言語で「性情」を云うものであるが、偏官はこれら思考言語の概念化、理念化、原理化を「身も蓋も無い」形

で転倒させて、「ぶっちゃけ話」としてしまう。

自らの「天にも地にも支えるもの無い単独性」、意識の基盤「死」を見つめた貸借思考で、一般域の思弁哲学思想を撃ち落す。

「死」程大きく「恐怖」を掻き立てるものは無い。生命体の基盤である。この部からのみ他者、世界に共通する普遍性、「思想」の言語

帰納してゆく思考法で発信する。「無限」の謎は「存在」の謎と同義となる。

   哲学思想の分野に、以上の主客配置を当ててみる。



 『偏官 モンテニュー』 ー「ユマニスムの総決算」ー「哲学することは死ぬことを学ぶことである」「どのように死ぬかを学ぶことである

」 学問知識の価値はその中に在るのではなく、それを思考し使う「人間」に拠るとするモラリスト。ぶっちゃけ話「エセー」は九年間の

自邸への引篭もりで産出され、以後半世紀発禁の書として眠る事となる。


 『偏官 バークリー』 ー「存在するとは知覚されることである」「物体は実在しないし、あるのは神のみと、われに観念をあたえている

精神のみである」ーイギリス経験論のロックとヒュームの中間位置にあって、視覚よりも触覚に「信」を置いて自己省察する。

触覚的対象は心の中の触覚的観念であり、可感的性質は「事物 = 観念」として、わたしの意識に現象する。

宗教家であるバークリーはこの意識に現われる観念は、外側にあるであろう「精神」に知覚によって繋がっているとする。

知覚する私が主人公ではなく、「永遠の精神 = 神」が全世界を知覚している宇宙観、知覚でつながる全体系のわれわれは一部なの

である。触覚で暗闇世界を手探りする世界観は、ナント像的広さを与えない閉塞された空間であろうか。

ナルホド偏官の「好き嫌い」「見込み見込まれ」の感情を知覚に還元すれば、「触覚」としか云い得なく的確である。

「気配」というそれを基点とした全体感覚のことであるが、偏官の感覚感情センサーは正に触覚的センサーなのである。視覚像を優先

する比肩経験論との違いであリ、その他の視覚的想像と理念的抽象で「無限」を追う世界観はここに無い。


 『偏官 キルケゴール』 ー「死にいたる病」ー「主体的真理とは最も情熱的な内面において捉えられた、客観的不確実性であるー非

合理的なものへの飛躍」 「主体的問題は主体性そのものに関する事であって、事象に関する問題ではない。つまり問題は決断と言う

事になり、すべて決断は主体性の中にあるから、そこには事象の跡形さえない。なぜなら事象が問題になると主体性は決断の苦痛と

危機から目を反らせ、問題をいくらか客観的にする事になり、それに伴って決断が延期される事となる」

未来不安こそ「自由」であり、「不安と罪」の了解による主体性、この単独者としての人間を理性からはみ出た「実存」と呼ぶ。

自らの「大地震」と呼ぶ心理的経験を、哲学史の文脈の中で「絶望」を問う事で、思想的理念化を目差す。「望みなきところで望みて信

じること」 「無限の神がキリストとして生まれた事の絶対矛盾」の中を、「人間キリスト」を「見込んで」、単独者の「跳躍」を決断す。

「現代の批判」では「公衆というレベルの無責任な言説」「勇気を減退させる浮気」「客観的思弁性の氾濫」が主体性を希薄化すると説

き、「個人個人が永遠の責任を負って、一人々別々の神の前に立つ」事と結論付ける。


 『偏官 ハイデガー』 ー「存在と時間」ー「一般的人間は空談、好奇心、曖昧性の中に取紛れていて死の観念を隠蔽するー頽落」 

「本当の生き方で、死を自覚した時、良心がいきるー死への先駆的決意性」

師である( 印綬) フッサールの論理に対する内的確信を問わんとする「現象学的方法」で、自己内面を探るとイデヤ性の確信は得られ

ず、「情状性ー死の不安」の確信が現われる。

「存在論」とは「身も蓋も無い」「ぶっちゃけ話」の哲学的転回なのである。

「無限」にむけての普遍性への思索の積み重ねを、「ここに在るとはナニカ」と意識以前を問うのである。ギリシャ哲学の「世界は何で

出来ているか」の存在論とは違っている。

前期は社会の客観視座から人間の在り方( 現存在 ) を問い、また主観による直観を使って「存在( 神) と存在者( 物) 」を、「無」の概念

で思考する。「死の不安」の対象「無」が、存在者の真の開示露呈、現存在の超越を可能とすると・・。

たしかに「無」に向かい合い、「死の覚悟」で見る世界は真実性を開示する。「無限」は「存在( 神 ) 」として足元に在るのである。

後期は「存在神秘学」と揶揄される詩的表現で、存在( 神 ) 自身の開示を探す。

「人間の業の一切は存在の運命に拠って規定されている」 「世界とは存在の明るみであり、開けを意味する」

「存在の番人」になる為には「詩作的思索」が必要であるとし、事ある毎に( 偏財) ヘルダーリン「詩人的に、人はこの世に住む」を引く。


 『偏官 ヤスパース』 ー「我々が超え出ることも、変化させる事も出来ない状況を通じて、超越者に向かう」 「事象は超越者の暗号

となり、解読によって超越者を確認する」 「真理は挫折する実存が超越者の多義的な言葉を、極めて簡潔な存在確信へと訳す場合

に存在する」 何と言う素直さであろう。苦悩の極限的内面から啓示的直観がやってくる事を自分のものとせず、向こう側を待つ小さき

者として表現する。他者に対しての「愛しながらの闘い」という「限界状況」が「自己の目覚め」に至り、極限状況とは「不可避の事柄ー

死ー苦悩、争い、罪責」であり、この理性の限界をくぐる事が「神を知る」こととなる。

「戦争の罪を問う」では戦中ドイツの人々のさまざまな局面での罪が言い尽くされて、四つの罪の他に形而上的罪「生きている事が、

死ぬこともできたと言う、崖っ淵に立たせる」ような心の中の貸借的罪を言う。

「責罪論」でも言う、「われわれには政治的自由が無い。公明正大こそ無力の内にも、ありうべき我々の品位の宿るところ、しかも我々

自身の好機の宿るところである」「ヘーゲルによれば無力な者として奴隷として生きようとする決意は、生を樹立する真剣味を帯びた行

為である。この決意からは一切の価値評価を修正する、人間の生まれ変りが生ずる」

心根から心根に向かって述べる偏官の「義」は、向こう側から掴まれて、とことん誠実さを押し通すのである。


 『偏官 カミュ』 ー「シ−シュポスの神話」責罪から岩を山頂に運んでは転げ落ちる、この神話の神と同様の心境の場に立つこと。

「世界は理性では説明のつかぬものに満ち満ちている。私には世界の唯一絶対の意味が理解できない。世界はひとつの巨大な非合

理的なものに過ぎない」 「絶対と統一とを求める本能、そしてこの世界を理性的かつ妥当な原理へと還元することの不可能性」

「病を病みつつ生きる」も同様の事をいっている。

サルトルの社会投企の楽観性に無責任を見て、( 正財 ) ヴェーユの「根こぎ」という世界の苦痛と孤独を引き受けての場所である。

「反抗的人間」「不条理」とは極限思考から観た、一般言説との乖離、反転を言っている。

「この否定や矛盾は、常に永遠を憧れている、ただ永遠のみを目掛けて、それらは飛躍を行う」


以上( 偏印 ) サルトルの相対無の実存主義を除いた、真の実存主義が全てここにある。

実存主義の「極限状況への思考」は「義侠の精神」「死の先取り」を基点としている。


 『偏官 伊藤仁斎』 ー「日本の実存主義」ー「仁義を天の道とすべきではない、およそ聖人の言う道とは、みな人道の事言うのだ」

「人の外に道なし」 「人に由って顕わる」 「人無きときは則ち以て、道を見ること無し」

道は客観「理」の世界に無く、「俗の外に道無く、道の外に俗なし」俗なる生活世界の中に、「一点の俗気ない俗生活」を目差す。

朱子学の権威厳格主義を引き摺り降して、「忠信 = 実心」と人間「孔子」に焦点する。対自の心根と、人である孔子に「信」を置く。

仁斎には若き日の出世願望による心的危機の中、禅の「白骨観法」での内的極限経験がある。

「自己の身が白骨に見え、他人と語っても白骨と対談するよう思われ、道行く人も木偶が歩くと見える。万物に空相現れ、天地なく生

死もなく、山川宮殿もみな幻に思われる」 現象世界に「無」を観て肝に銘じ、卑近「ここに在ること」から世界構築してゆくのである。


 『偏官  メルロ・ポンティ』 ー「知覚の現象学」は( 印綬 ) フッサールの現象学的還元によって、「知覚」を自己内面に問う。

結果は身体という場所に言語、主体意志までもが構造化ゲシュタルトされた、身心合一の場が確信される。

ゲシュタルトされた身体とは本文で使用の、「感覚感情思考身体」のことである。「身体」という言葉の意味がここで、ほぼ確定されて

現在にいたっている。これに拠って視覚像は要素からでは無く、いきなりパースペクティブ全体像として捉えられる事が理解される。

ここでも友人サルトルの実存主義は歴史的状況がいかに変化しても、決して挫折しない意識として否定されている。

「知覚現象学での諸問題が解決不可能なのは、そこで私が意識と客観の区別から出発しているからだ」

「上空飛行的思考」といって客観視座を終始批判した、対自のメルロ・ポンティは更に主客の想定をも放棄する。

フッサールのメモ「二つの手を触れ合すと、一方は主体側の感じられる方、他方は客体の感じさせる方になる」をヒントに、後期の「存

在論」への偏官の本来的思索が始まって行く。

触覚が思考対象に加わる事で、世界はバークリーと後期ハイデガーの世界に似たものとして捉えられ、世界は感じられる方と感じさ

せる方の、二重性の連鎖によつてゲシュタルト全体化されて、「世界身体」が自分自身を見たり触れたりしているという、宇宙全体イメ

ージの世界観に拡大される。 「世界は他ならぬ身体という生地で、仕立てられている」 「一方の手と他方の手の間にある種の交差

が起こり、感じ感じられるという火花が飛び散り、そこに火が灯り、そしてその火が絶え間なく燃え続ける」

また聖書の「肉」という表現から、存在自身を「世界の肉」と呼び、これと個が「臍の緒」で繋がる世界観を「内部存在論」と呼んで客観

視座ではなく、主観が仰ぎ見る「詩作的思索」である事を言う。 これらの比喩はとにかく朴訥直截ではあるが、本文仮説の左上図の

偏官主客標示の図に合致する。図の刺は「火花」で比喩されている。

「望みなきところで望みて信じること」で普遍へ跳躍する実存主義と、「望みなきところで望みて信じること」で世界を直観普遍化する実

存主義があることになる。

普遍世界化すると他者との単独性としての「共通性」が切断されて、普遍性は一般化し、誰にでも受け取れるものから失墜する。


 『偏官 ヴィトゲンシュタイン』 ー「世界に神秘はない、この世界が在ることが神秘である」・・・実存主義かと思わせる文言である。

客観論理による言語哲学の世界、ここでは( 正官) ラッセルの「言語の真偽」を証明せんとする「分析哲学」を受けて、「かたり得ぬこと

は黙さねばならない」として、言語命題を現実の像と対応するもののみに限定する。

「像の真偽は現実の一致不一致によって決定される」ー明晰で事実に沿った命題のみが世界であるとする「写像理論」は、「身も蓋も

無い」かたちで世界域を限定縮小させる。論理実証できる世界は、自然科学のほんの一分野のみである。

「真理関数理論 ー 論理学の命題はトートロジー( 同義反復 ) と見なされる」 が、論理学についての最終結論である。

すっきりサバサバした極限思考で、ラッセルの労苦「哲学の数学への還元」の息の根が止まる。これが前期「論理哲学論考」である。

極限の客観論理からこぼれ落ちた、確実には「かたり得ぬ」哲学テーマは「ただ示される」のみである。「主体は世界に属さない、それ

は世界の限界である」「時間空間の中の生に絡む謎の解決は、時空の外にあるのである」「死に際しても世界が変わるのでなく、世界

がおわるのである」 これら実存域こそが、本来のヴィトゲンシュタインの「ふるさと」なのである。

ナゼ これら不確実な言語での日常生活は行われ得るのか、主観同士の了解の不思議が立ち現われる。

ここから後期の「かたり得ぬもの」自身、主観にむけての、ゲシュタルト「哲学的探究」に至つて、言語は任意のルールでの「言語ゲー

ム」として全体化される。 「ルールに従うということは一つの実践である」。

「私的言語」についてー「私は自分が痛みを感じているのを知っている」とは言えず「感じる事( 自然表出) 」と「知っている事( 認知)」の

レベル差を捉えて、「知というこの奇妙な現象は何か」、知に拠る世界の根拠付けを批判する。

「確実性の問題」についてー 「真理に根拠があるとすれば、その根拠は真でも偽でもない確信」であると。

ソノ トオリ と本文主旨は同意する。意識にとって感覚感情も、整理言語も、理念と同じく向こうから掴まれての「信」に拠っている。

完全な論理は無いし、感覚感情もすぐ消える。「やるべき事をやるってゆく」という、卑近からの積み重ねの「身体化」が「信」を呼ぶ。

「信」は勝ち負けではなく、同意に拠ってしか普遍性を目差せない。本項偏官には整理言語身体に「信」は無い。

「私は宗教的人間ではないが、どんな問題も宗教的観点からしか、見ることができない」 世界は謎に包まれている。


 『偏官 ヴェルレーヌ』  ー 「デカダンスの巨匠」 ー 「 ・・・巷に雨のふるごとく ぼくの心になみだふる かくも心にしじみ入る

 この悲しみは何やらん ・・・」 「何よりもまず音楽を・・」 メロディーの流麗と叙情性、感傷 「われこそはデカダンス末期の帝国」。 

デカダンスの定義は「美しく死ぬ技法」である。偏官の詩作テーマは、心情「心根」である。


 『偏官 富永太郎』ー「枝々の鋭角の黒みから生まれでる、かの虚無の性相をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許

されてある。今は降りゆくべき時だ・・・(秋の悲歎)」ー虚無に向かわぬ怠惰の方が、怖ろしいと言っている。


 『偏官 リカードゥ』 ー「経済学原理(労働価値説)」ー
(印綬)マルサスとの親交と反論に拠って、( 正官) アダム・スミスの「神の見

えざる手」に変えて、経済学の中に倫理要素「労働価値説」を確固定立する。客観形式の中に後の「社会主義」にいたる、「労働時間

= 商品」が地上の一般域に固定化される。客観の中に「対自主観」が残される。

極言すると「労働に卑賤は無い」という事に至る、「仕事を通じての善」への道が抹殺を免れたのである。


 『偏官 エンゲルス』 ー「ブルジョア階級は、支配權を握るに至つた所では、封建的、家父長制的、牧歌的な一切の關係を破壞した

。人間をその生れながらの長上に結び附けてゐた種々雜多の封建的な絆を情け容赦なく切斷し、人間と人間との間に、剥き出しの利

害以外の、冷たい「現金勘定」以外の如何なる絆をも殘しはしなかつた。宗教的熱狂、騎士道的情熱、俗物的感傷といつた最も神々

しい恍惚感を、氷のやうに冷たい利己的打算の水の中で溺死させたのだ」ー「共産党宣言」は「学問」ではなく死を賭けた「決闘状」で

あるから、社会に対した偏官世界観を対自の世界観とは見なせない。「義」は「自由」よりも「平等」の「旗印」を目差す、とのみ言い得

るだけである。エンゲルスの「唯物論」も「決闘状」からは探れない。


 『偏官 毛沢東』 ー「実践論 矛盾論」ー「根本特殊矛盾、主要諸矛盾、矛盾の同一性、依存移行、闘争性、相互排除、敵対的、

非敵対的矛盾」の世界を「実践、認識、実践、認識、実践・・・」で進む、兵法による気構えを言っている。

極上の相性( 印綬) 周恩来が
偏官の暗闇世界に、光明の方向「理念」を指し示す。


 『偏官 ケインズ』 ー「自由放任の終焉」ー「資本主義は賢明に管理される限り、経済目的を達成する上で、たぶん今まで見られた

どの代替経済組織以上に効率的であるが、それ自体ではいくたの点で好ましくない。問題は効率的で満足のゆく生活様式について

の、我々の考えに抵触しない社会組織を創る事である」


 『偏官 白隠』 ー「隻手の声を聞け」パーンと打つ片手の音を聞けという公案である。「以前の公案よりも誰もが疑団を起こしやすく、

工夫に励んで進境著しいと思われる」「隻手の音は耳で聞くべき音では無い、思慮分別を交えず、見聞知覚を離れて、日々の行住坐

臥の内に気を抜く事なく隻手の音を聞こうと努めれば、理も言葉も離れ座禅極まり、忽然と生死の境を超え、それまでそこにいた無明

という屈託を打ち砕く境地に至る」ー臨済宗中興の祖で 11歳で知った地獄の深淵を終生見つづけ、禅を日常現実域に引きずり降し、

現在に至るまでの多くの英傑を輩出させた教育者でもある。隻手の音とは示唆的な話である。


 『偏官 ミルトン』 ー「楽園喪失」 妻を愛する由に自覚的堕落の道を行く「義人アダム」の、リアルな講談調叙事詩。

直諭法による心情の視覚化聴覚化によって、「母国語でのキリスト教的英雄詩」を描く。「・・・摂理こそ彼らのしるべ 手に手を取りて 

さまよいの足取り重く エデンを通り 寂しき道をたどりゆく・・・・」ー「忍耐の徳ー激情はすべて静めて」


 『偏官 メリメ』 ー「カルメン」の原作者で、( 偏財) スタンダールを友人とする仏ロマン派のリアリスム作家。標語は「感激無用」


 『偏官 ミュッセ』 ー「魂の叫び」の仏ロマン主義魂の戯曲家で詩人。自称「ロマン派の脱走兵」


 『偏官 シューマン』 ー「ドイツロマン派のリーダー」作曲家で評論家ーシヨパン、メンデルスゾーン、ブラームス、ベルリオーズを紹介

して、これらがロマン派と呼ばれる事となる。精神を病んでライン河に投身、二年後に死去・・・。

こころざし「心情」への志向は、(偏官)妻クララ・シューマンと(劫財)ブラームスに継がれて完成される。


 『偏官 マティス』 ー「フォーヴィスム 野獣派の王」ー原色と、人物に黒の縁取り ー「私は絵を作り上げている感覚の凝縮状態に

達したい」 これらの絵の原色は、下絵のリアルな黒に跳ね返っていると見えて仕方が無い。

「私が夢見るのは人の心を乱し、気を滅入らせるような主題のない、調和のとれた、純粋で静謐な芸術である」


 『偏官 ヘルマン・ロールシャツハ』 ー「知覚反応の分析」 インクブロット・テストは、メルロ・ポンティ「パースペクティブ全体像とし

て捉えられる身体」を想定して作成されている。ナゼこの象徴作用に偏官が拘るかであるが、このゲシュタルトされた全体感覚感情セ

ンサーの像的直観作用を「自分」だと思っているからである。ー失意で35歳にて死去。


 『偏官  ゲーデル』 ー 「不完全性定理」 ー 「数学形式体系の無矛盾性はその体系の中では示せない」


 『偏官 ニールス・ボーア』 ー「相補性」ー電磁気学と量子論をまとめて思考する「対応原理」と同じく、粒子と波動も「相補性」の概

念で一段高い思考域をめざす。またこの「相補性」を心理学、生物学等に敷衍しての使用を試みる。

ボーア家の紋章を易の太極図にまでする、理論物理学研究所の所長である。

「すべての物事には二つの側面があり、それぞれの側面は互いに補い合ってこそ、ひとつの実在について記述することができる」と一

般化されている、この相互依存性はメルロ・ポンティの前期「身心合一の身体という概念」と同じものである。

しかし( 正官) ハイゼルベルクを伴う「コペンハーゲン解釈」は、「量子的な世界が神秘的で」「測定がなされるまではどんな事実もない」

「相補的な性質の値を同時に知ることはできない」「量子的な世界は非決定論的」と言う意味での、向こう側を待つ小さき者としての、

主観側からの「相補性」である。主客合一を客観側から見る「信」はない。

微小世界の観測結果を解釈する事は、観測装置センサーをそのまま「主体」として扱う「機械含みの生命体モデル思考」と言える。

ミクロの物質の実体を雲のような波として考える量子力学の理論は「触覚」で思考する偏官世界観に合っている。

像的思考の極限であり、左上図の刺は「波」となる。

太極図の紋章の世界観は、後期メルロ・ポンティの身体を宇宙大にした「内部存在論」と同じものである事が判る。


 『偏官 ベイトソン』 ー「ダブルバインド二重拘束」を回避するシステムを求めて、「精神の生態学」ではコミュニティ的な活動における

相補的な原理を探す。ベイトソンが重きを置くのも、「感じ」感覚感情の「サイバネティツク」身体である。

ダブルバインドは「私的言語」が論理的には知的矛盾する事、「知る」と「感じる」のレベルの差を、逆説的に言及したものであった。

こうして並べてやっと気づくが、ベイトソンは反主知主義、そこからの反現代システムを主張していたのである。


 『偏官 金子みすず』 ー「朝焼け 小焼けだ 大漁だ 大羽イワシの大漁だ 浜は祭りのようだけど 海の中では何万の イワシの

弔いするだろう」「冷たい冷たい土の中 金魚は何をおもつてる 金魚屋の荷のなかにいた むかしむかしの友達を」

「素質として最も貴いイマジネーションの飛躍がある」と( 正官 ) 西条八十に称賛された、雑誌「童話」の投稿詩人。

この詩も自己の「ふるさと」を言っている。詩の好きな少女は結婚によって詩を断念する。入り婿の夫に淋病をうつされ、身体衰え願い

出て離婚する。大正期の親権は父親にある。遊び人の夫が三歳の娘を取りにくる前日に、死をもって抗す。

娘と最後の写真をとり、童謡を歌つて風呂に入り、同居の母と叔父と四人で桜餅をたべ、枕元に写真の預け書と遺書をおいて死す。

「あなたがふうちゃんを連れて行きたければ、連れて行ってもいいでしょう。ただ私はむふうちゃんを、心の豊かな子に育てたいのです

。だから母が私を育ててくれたように、ふうちゃんを母に育ててほしいのです。どうしてもと言うなら、それはしかたがないけれど、あなた

がふうちゃんに与えられるのはお金であって、心の糧ではありません。」 

母宛てには 「先立つ不幸をゆるしてください」・・・・ 「今夜の月のように私の心も静かです」。


 『偏官 山路愛山  』 ー「日本英雄伝」ー英雄は時代をつくり、時代は英雄をつくる。「人生相渉論争」では( 偏財)北村透谷の「内

部生命論」に対し、「文章即ち事業なり」を置いて国民国家の「事業振興」を言う。


 『偏官 大久保利通』 ー「明治天皇東遷」の本願を果たす。何時でも死ぬ気で保身がない。テロにより死す。


 『偏官 乃木希典』 ー「うつし世を 神さりましし大君の みあと幕ひて 我はゆくなり」ー明治天皇を追って妻と伴に自刃。

「山川草木 転た荒涼  十里風腥し 新戦場   征馬前まず 人語らず  金州城外 斜陽に立つ」 ( 腥とは生臭いの意)


 『偏官 徳川家康』 ー「先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬを あわれとぞ思う」ー( 印綬 ) 信長が先にいる。

「ふるさと」の違いは「鎖国」の制度に現われる。


 『偏官 豊臣秀吉』 ー「露と散り 雫し消ゆる世の中に 何と残れる 心なるらん」ー 「ふるさと」のシンボルは大阪城外堀にある。


 『偏官 頼山陽』 ー「遺恨なり十年一剣を磨き 流星光底に長蛇を逸す」ー「日本外史」勇壮浪漫の叙事詩、心情を感覚で叙す。


 『偏官 横光利一』 ー「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駈けてゐた、沿線の小駅は石のように黙殺された」ー

「遺恨なり十年一剣を磨き 流星光底に長蛇を逸す」と同様の感覚感情センサーがここに在る。


 『偏官 川端康成』 ー「横光利一と双壁の新心理主義(感覚と心理)の旗手」 ー 愛山の言う「事業」意識が強力である。

「大事な事は作家として立場をつくる事、いい作品を書く書かないじやナイ」「まず作家の立場をつくる事だネ。そうでなかったら、作品を

発生しょうがない」 川端への「冷たい理知、美しい叙情」の世論評を、( 劫財 ) 小林秀雄は「化かされた阿呆」と言う。


 『偏官 黒田喜夫』 ー「この道は何処へ行くのだ教えてくれ応えろ 背中の銃をおろし無音の群落につめよるとだが 武器は軽く 

おお間違いだおれは手に三尺ばかりの 棒片を掴んでいるにすぎぬ」


 『偏官 ソロー』 ー「森の生活」ー「自分たち、或いは子孫のために財産を蓄積していくにしても家族や国家を築き上げていくにしても

、或いは名声を獲得するにしても、我々はいずれ死ぬ運命にある。しかし真実を扱うことにおいては我々は不死であり変化も偶然も恐

れる必要はない」 「いかなる生き物であれ、死んだものよりはいい」

( 印綬) エマソンの「自然論」に「信」を直観して傾倒、「行」のような森への散策がはじまる。


 『偏官  バフチン 』 ー「身体・声・笑い・対話的能動性」「小説の哲学の極致としてのカーニヴァルの意義」「解放の笑い」「グロテク

ス・リアリズムの特徴ー宇宙的、社会的、肉体的な要素がひとかたまりで現れる、死と再生が結びあって両面価値的なイメージを構成

」「叙事詩の世界ー最良の世界、近づきがたい時間、不変で絶対的なものを単一言語で描く」


 『偏官  E A ・ポー』 ー「感じるパスカル」ー( 正官 ) バスカルの「宇宙は中心がどこにも存在し、同時に周辺のどこにも存在しない

球体」に賛同するが、「思考する人より感じる人」の必要を説く。

「神の心臓の鼓動」を全身で触覚する、「墓」の中の「感じる人」がポーの世界にはふさわしい。

この「死、恐怖、絶望」からあらゆる物語を紡いだ天才を、デカダンスの巨匠( 正官) ボードレールは言う「アメリカ合衆国は巨大な牢獄

にすぎない、ガス灯に照らし出された広大な蛮境だ。ポーは嫌悪に充ちたこの社会の影響から逃れ、己が精神を高揚させる為酒を飲

んだ。私は殉教録に新しい一人の聖人を加える」と。


 『偏官 バルザック』 ー「人間喜劇」ー登場人物 2500人が19世紀のフランス全土で「愛、野心、金銭、政治、権力、復讐、悔恨、慈

善、放蕩、芸術、放蕩等々」をテーマに、「書簡体、対話体、話中劇、回想、告白等」の形式で、「リアルな風俗史」を目標に描かれる。

「外的細部を非常に良く捉えた結果は、直ちにその彼方まで届く」という直観「信」に支えられて・・・。

「神にふさわしい企図があるとすれば、それは人をして未知の領域へと歩ませる変貌である。それは人間よりも下位にある被造物の

原理であるとともに、優れた存在の原理でもある筈である。私の宗教はここに神についての理解不可能性をも付け加えるものである」

(偏印)ユーゴー(偏財)スタンダール等のロマン主義者と伴に、市民社会黎明期を生きた「仏レアリスム小説の始祖」の、「俗なる生活

世界」と「欲望が現実に接し逓減してゆく生命現象」そして「存在の神秘」を、後年の哲学思考は「実存主義」と呼ぶのである。

「自由と社会変革」の(比肩)ルソーを嫌い、社会の進歩よりも社会を「霊の肉との争いの場」と見る。

「義」を描いての騎士道物語風「谷間のゆり」を、(偏官)遠藤周作は「人間喜劇」の中で一番の秀作と言う。


 『偏官 中里介山』 ー「大菩薩峠」業を背負って生きる「音無しの構えの机龍之助」は、大正2年から昭和 16年まで書き継がれて未

完におわる。まず意味なく親子を峠で切るのは、「原罰」の象徴表現になっている。デハ「音無し」とは「無のふるさと」である。


 『偏官 滝沢馬琴』ー「南総里見八犬伝」の元本は「水滸伝」であり、「因果応報の法則」で筋を導く、27年をかけた我国最大の長編

小説である。犬と人間が子を儲けると言う発想に、「身も蓋も無い」リアルな違和を感じてしまう。


 『偏官 沢庵和尚』 ー「生命と欲と義」で道を説く仏道。「殉死」は禁である。


 『偏官 谷岡ヤスジ 山上たつひこ 小林よしのり さくらももこ』 ー「鼻血ブー」「死刑のコウモン開き」「貧ボッチャマ」「周期でくる便

意」ー「身も蓋も無い」ギャグを懐中に忍ばせて・・・。


 『偏官 山頭火』ー「落ち着いて死ねそうな 草枯るる」 「ちんぽこも おそそも湧いて あふるる湯」「うしろ姿で しぐれてゆくか」


 『偏官 宮崎駿』 ー(印綬 )
徳間康快に終始目を見つめて自家談判、印綬はその心根に「信」を見る。

「いのちは闇の中の またたく光だ すべては闇から生まれ 闇に帰る」・・ニヒリズムでは無く「存在の謎」への確信が言わせている。


 『偏官 養老孟司』 ー「在るもの『死』を見ないのはオカシイ」「自分の死体は無い」「親しい人の死体は死体ではない」「知らない人

の死体だけが死体である」ー「父の死体にサヨナラが言えなかった事」と「人に挨拶出来ない事」の繋がりの直観が来て男泣き。

かつての「唯脳論」科学合理主義から転回、「死を思う事」の極限思考で、「教条主義、世間の常識一般性」を撃ち落す。

卑近からの「信」を、自分で構築するしかない事を力説するが、身体を異にする理性型の学生には通じない。


 『偏官 森岡正博』 ー「無痛文明論」 真の痛さ、辛さ、絶望の無い、「無痛化装置」頽落状況を警鐘する。

この文明の特徴を「反復しても、心の空虚が埋まらぬシステム」と説く。

「今のままでいいんだヨ」「心のケアで取り除こう」「本当の自分をさがそう」「自分のやりたい事があるはずだ」の一般言説を撃ち落す。


 『偏官 笑福亭鶴瓶』 ー「偏差値の高いヤツは空気が読めん」ー ツルベの対自から発する「在る事、在る物の謎」実存域は深い。


 『偏官 近藤勇』 ー「誠」は対自への標語であり、史上最後の刀による合戦( 池田屋 ) の当事者。捕手され斬首にて死す。

赤穂義士の陣羽織を「義」のシンボルとして使用、尊王派弾圧「新撰組」隊長。


 『偏官 高橋是清』 ー「税金による消費呼び水政策」は、内容を同じくする( 偏官) ケインズ「雇用・利子・貨幣の一般理論」の四年

前に施行される。何時でも死ぬ気で軍部と対立、「だるま蔵相」 2.26テロに死す。


 『偏官 最澄』 ー「山家学生式」ー大乗戒による受戒を願い出る、学生養成制度の規範集。「利他行の無戒破戒、非公認の僧への

税金還流を行う制度改革」は最澄死後七日後に勅許されて、ここからドッと大乗の新宗教家が輩出される。最澄には衆生みな一様に

仏を仰ぎ見るという、「平等」への「信」が終生変わらない。本項すべての人物の共通点である。


 『偏官 ラビン・イスラエル首相』 ー「生粋の軍人首相」が( 印綬 ) クリントンを挟んで( 劫財 ) アラファトと暫定和平に調印する。

何時でも死ぬ気で保身がない。白色テロに死す。


 『偏官  山鹿素行』 ー「聖人の学は日用のみ」ー伊藤仁斎の前に人間「孔子」に焦点して、朱子学の客観論理「理気説」を批判、

儒学を地べたに引き摺り降ろして「実学」と称す。両者は「古学派」と呼ばれ、この件による赤穂藩への九年の幽閉は、後の義士事件

の遠因となる。「赤穂義士の心根の先生」である。武士の為の百科全書「武家事紀」も著し、兵学者であり実戦的「士の道」を重んじて

「武士道論」を打ち立てる。赤穂義士は、「今夜の月のように私の心も静か」な死にむけて跳躍する。


 『偏官 フォントネル』 ー「死者たちの対話」「宇宙の多様性についての対話」ー科学精神を普及する、17世紀啓蒙主義の先駆者。


 『偏官 エドモンド・ゴンクール』 ー「ジェルミュー・ラセルトゥ」ー自分の家の女中をモデルに、ヒステリー症の善良な女中が、性の過

ちから転落して行く悲惨な姿を、冷たく描く自然主義文学の先駆。これが( 偏財)ゾラに「ルーゴン・マカール叢書」20巻( 遺伝と環境条

件を使った、十五歳で精神病院で死んだ女主人公の子孫の物語) を描かせる。


 『偏官 アル・カポネ』 ー「頬に傷ある男 スカーフェイス」私兵 700人を持つシカゴのイタリア系ギャング。ジャズのスポンサーでもあ

り、野球を愛し、球場に入る際は観客から拍手を受ける。悪性梅毒で廃人同様に48歳死去。

刑務所と暗黒街が生前の生活世界であったとは、偏官世界とシンボルでの一致を見る。「暗黒」の街である。


 『偏官 金正日』 ー「瀬戸際外交」が( 偏官) ブッシユ ( 偏官) ラムズヘルズに対峙する。 


 『偏官 ハンフリー・ボガード  アンソニー・クィーン  ジャン・ギャバン  ブルース・ウィルス  シルベスター・スター ロン  キアヌ・

リーブス 三船敏郎  松田優作  役所広司  坂東妻三郎  若山富三郎  安岡力也 』 ー男性的男優の系譜


 『偏官 吉田拓郎  井上光晴』 ー「ヤラセロ」を信頼する女性への挨拶とする、「身も蓋も無い」人間。


 『偏官 橋本治』 ー「泣いてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている おとこ東大どこへ行く」


 『偏官 安藤忠雄』 ー「京都町屋のコンクリート打ちっ放しの家」は境界全てに壁を立て、中心に庭を置く。「ふるさと」のままである。


 『偏官 山田耕筰』 ー「戦争責任論」を問われて尻を捲った男、
( 印綬 ) 団伊玖磨との魂胆会い照らす師弟の仲。

曲が詩のイントネィションに従わない事が、新しい感情表現となる事を教えられる。
( 印綬 ) 三木露風を兄とも敬す。


 『偏官 村上一郎』ー「あの時の村上さんは立派だつた」( 偏財) 吉本隆明の妻の言葉。同人誌を外される時の話 ー 自刃

「冥らかに 思想の鞍部 見さけつつ けふをいのちと 旅果ててゆけ」

「憂ふるは 何のこころぞ 秋の涯は からまつも焚け 白樺も焚け (昭和十六年極月、対米開戦の前夜)」

「たまきはる 曠野のいのち 夏草をおほいて 遠く果てき いくさは (昭和二十年八月二十一日夜半、一切に挫折)」


 『偏官 ライアル・ワトソン』ー「100匹目のサル」過半数を超えたサルのイモ洗いが別の島に伝播するー
「解答が見つからないといっ

て神秘主義的なまじないや神々などに救いを求めたり、絶望したりすることはないと思う。私はかえって矛盾に充ちたわれわれの自然

界に対して強い誇りをもつ。昔から疑問のあった問題に対しては、新たな、より有意義な問いかけをする決意を抱き、われわれが神秘

に充ちた奥深い宇宙の一部であるということに変わらぬ驚嘆と歓喜を感じるのである」。 「人間死ぬとどうなる」が生物学者としての

作者が最も自分に近づき、
「望みなきところで望みて信じること」を外側客観から言っている。


 『偏官ワーズワース』ー「草原の輝けるとき、花美しく咲きしとき、再びそは還らずとも嘆くなかれ、その奥に秘めたる力見出すべし」


 『偏官 マルセ太郎』ー「術後の力のなさから、モオイイヤという形で死はやって来る。恐怖はまだその残っている生命力の照り返し

である・・・」から人が変ったように、「義人」のように良く生きた。思えば傍らに( 印綬) 永六輔が付いていた。


    偏官の主たる相性を云う。

       偏官は正官の「良識正道」を破壊する。

       偏官は比肩の「自我中心主義」を義侠によって制圧す。

       偏官は偏財の心理の計量化を、「義」と取り違えて「大いなる落胆」す。

       偏官は印綬に合って「文武両道」光明の道への「信」を得る。

       とくに偏財、印綬のリストとの付き合わせによって、「ああソウカ」が現れる。




           「 分け入っても  分け入っても  青い空 」                『偏官 山頭火』


         ・・・閉塞観を与える青空は( 正官 ) 司馬遼太郎と同様だが、こちらがキツイ・・・刺のなかを行く